枡野俊明 『禅と食 「生きる」を整える』読了
禅宗のお寺で、「典座(てんぞ)」という役職はお寺の坊さんたちの食事を作る役職だが、お寺の中ではナンバー2の位だそうで、この役職を経験して住職になる坊さんも多いそうだ。
特に曹洞宗ではこの、食事をすること自体、もしくは作法は修行の中でも非常に重要なものであると位置づけられているらしい。
この本は、その「食事」をキーワードにして禅について解説している。
曹洞宗には、食事にまつわる三つの心というものを重要視している。それは、
「喜心」食材の恵みに感謝して料理を作る喜び
「老心」親が子を思うように相手を思い無償の愛情を持ってもてなす喜び
「大心」大山のようにどっしりとさせ、大海のように広々とさせ一方に偏ったり固執したりすることのない心。どんな相手にも分け隔てなくもてなす心。
というものである。
何に対しても執着せず、何に対しても惑わされない心、が大切であるということを言っているのだろうが、よくよく考えれば、そういう心を持つためには、本当に仏教の修行をして、煩悩を断ち切り、そういうものを入れておく入れ物を消し去るか、そうでなければ、「衣食足りて礼節を知る。」というけれども、自分の生活に一切の不安がなくならないことにはそんな境地にはならないのではないかと思うのは僕の心が狭いのであろうか。
どこからが一切の不安がなくならない状態なのか、それはよくはわからないけれども、人生の第4コーナーを曲がる頃になると、老後の資金とか、生きがいとか、そういうものに不安がないということが生活に一切の不安がなくなったということになるのだろう。
世の中にキレる老人が多くなったというのも、心のどこかにそんな不安を抱えているからそういうことをしてしまうのではないだろうか。
自分を振り返ると、この先の不安もあるけれども、今をなんとかしたい。毎日会社には行くのだが、常に、一体何をやっているんだと思いながら1日を過ごしている。会社は能力のある人にはそれなりの地位と仕事を与え、そうでない人にはそれなりの仕事とそれなりの給料で待遇するという方針らしいが、ぼくは間違いなく“そうでない人”に堕とされているようだ。そこで、いやいや、僕は別に会社から給料をもらわなくても生活には困らないだけの財産があるからなんとも思わないよ。という人であれば何の悩みや嫉妬が起こらないのであろうが、悲しいかな、僕の人生では意外と会社での立場が自分のアイデンティティの大きな部分を占めていたようだ。収入の面も当然・・。
今までのキャリアにゼロを掛けられるとそこにはお寺で修行をしたように悩みを入れる器もすっきりなくなってしまうのかと思いきや、そこには滓のような劣等感だけが残ってしまう。
そんな滓が感謝や愛情や分け隔ての無い思いやりのこころを覆い隠してしまう。
そして最近、何を焦っているのか、走っても走っても川上に向かって水の中を歩いているように前に進まない。またそんな夢を見るようになった。まったく禅の心の欠けらも見つからない。そんな毎日だ。
左斜め前の座っている同僚は、自分は会社人としても社会人としてもすばらしい人間だと思っているようだ・・。でも、いまだに平社員でそれも経歴を聞くと様々な部署を渡り歩いているというのはそれぞれのところで評価が低いから出たり入ったりを繰り返してきようにも見える。ということはほぼ僕と同じで最低の評価をされているのだろうけれども、そういうことに気付かないのだろうか。それとも気付かないふりをしているのだろうか。最後に“そうでない人間が来る部署”に流れ着いて、どうして自分自身をそんなに評価できるのか・・。そしてどうしてこんな仕事に誇りを持てるのか。一度聞いてみたい。聞かずともわかるのは彼はきっといつも幸福感を感じているのだろう。何も考えずとも禅の心が身についているらしい。しかし、あの肥〇度と浮浪者が出すのと同じ成分の悪臭とアンモニア臭で自分自身を律することができているとは思えない。
脳みそをかち割って中を覗いてみたいものだ。
一切衆生悉有仏性という言葉があるけれども、僕にはあったとしてもその残量はごくわずかだ。こんなのってチャージすることはできるのだろうか。それはどうやったらできるのだろうか。そんなことしか感想として書くことができない・・。
禅宗のお寺で、「典座(てんぞ)」という役職はお寺の坊さんたちの食事を作る役職だが、お寺の中ではナンバー2の位だそうで、この役職を経験して住職になる坊さんも多いそうだ。
特に曹洞宗ではこの、食事をすること自体、もしくは作法は修行の中でも非常に重要なものであると位置づけられているらしい。
この本は、その「食事」をキーワードにして禅について解説している。
曹洞宗には、食事にまつわる三つの心というものを重要視している。それは、
「喜心」食材の恵みに感謝して料理を作る喜び
「老心」親が子を思うように相手を思い無償の愛情を持ってもてなす喜び
「大心」大山のようにどっしりとさせ、大海のように広々とさせ一方に偏ったり固執したりすることのない心。どんな相手にも分け隔てなくもてなす心。
というものである。
何に対しても執着せず、何に対しても惑わされない心、が大切であるということを言っているのだろうが、よくよく考えれば、そういう心を持つためには、本当に仏教の修行をして、煩悩を断ち切り、そういうものを入れておく入れ物を消し去るか、そうでなければ、「衣食足りて礼節を知る。」というけれども、自分の生活に一切の不安がなくならないことにはそんな境地にはならないのではないかと思うのは僕の心が狭いのであろうか。
どこからが一切の不安がなくならない状態なのか、それはよくはわからないけれども、人生の第4コーナーを曲がる頃になると、老後の資金とか、生きがいとか、そういうものに不安がないということが生活に一切の不安がなくなったということになるのだろう。
世の中にキレる老人が多くなったというのも、心のどこかにそんな不安を抱えているからそういうことをしてしまうのではないだろうか。
自分を振り返ると、この先の不安もあるけれども、今をなんとかしたい。毎日会社には行くのだが、常に、一体何をやっているんだと思いながら1日を過ごしている。会社は能力のある人にはそれなりの地位と仕事を与え、そうでない人にはそれなりの仕事とそれなりの給料で待遇するという方針らしいが、ぼくは間違いなく“そうでない人”に堕とされているようだ。そこで、いやいや、僕は別に会社から給料をもらわなくても生活には困らないだけの財産があるからなんとも思わないよ。という人であれば何の悩みや嫉妬が起こらないのであろうが、悲しいかな、僕の人生では意外と会社での立場が自分のアイデンティティの大きな部分を占めていたようだ。収入の面も当然・・。
今までのキャリアにゼロを掛けられるとそこにはお寺で修行をしたように悩みを入れる器もすっきりなくなってしまうのかと思いきや、そこには滓のような劣等感だけが残ってしまう。
そんな滓が感謝や愛情や分け隔ての無い思いやりのこころを覆い隠してしまう。
そして最近、何を焦っているのか、走っても走っても川上に向かって水の中を歩いているように前に進まない。またそんな夢を見るようになった。まったく禅の心の欠けらも見つからない。そんな毎日だ。
左斜め前の座っている同僚は、自分は会社人としても社会人としてもすばらしい人間だと思っているようだ・・。でも、いまだに平社員でそれも経歴を聞くと様々な部署を渡り歩いているというのはそれぞれのところで評価が低いから出たり入ったりを繰り返してきようにも見える。ということはほぼ僕と同じで最低の評価をされているのだろうけれども、そういうことに気付かないのだろうか。それとも気付かないふりをしているのだろうか。最後に“そうでない人間が来る部署”に流れ着いて、どうして自分自身をそんなに評価できるのか・・。そしてどうしてこんな仕事に誇りを持てるのか。一度聞いてみたい。聞かずともわかるのは彼はきっといつも幸福感を感じているのだろう。何も考えずとも禅の心が身についているらしい。しかし、あの肥〇度と浮浪者が出すのと同じ成分の悪臭とアンモニア臭で自分自身を律することができているとは思えない。
脳みそをかち割って中を覗いてみたいものだ。
一切衆生悉有仏性という言葉があるけれども、僕にはあったとしてもその残量はごくわずかだ。こんなのってチャージすることはできるのだろうか。それはどうやったらできるのだろうか。そんなことしか感想として書くことができない・・。