三浦しおん 「神去なあなあ日常」読了
この小説の舞台は、三重県の中西部にある神去村である。「なあなあ」というのは、「ゆっくりいこう」「まあ、落ち着け」という意味で、この村ではあいさつ代わりに使われるという設定である。
なかなか軟派な本だ。お仕事小説というジャンルがあるのかどうかは知らないが、若者が不本意ながら林業に挑むという設定だ。
ぼくがどうしてそんな軟派な小説を読もうとしたかというと、以前に読んだ、角幡唯介の本に三浦しおんとの対談が掲載されていて、この本を話題に上らせていた。
普通に読むと、都会の若者がひと癖もふた癖もある人たちに囲まれ、ドタバタに巻き込まれながらも小さな村の林業に携わることを通してたくましくなっていく、そこに「林業あるある」を挟み込んでというコメディタッチの物語なのだが、角幡唯介はその一場面、主人公の親方の子供が神隠しに遭うというところに注目していた。
実際小説の中では本当に神隠しに遭い、とんでもないところから子供は見つかるのだが、これは小説の中の話であって実社会の中で考えるとそんなことはありえず、また、読者は誰もそんなことを信じでいない。しかし、おそらく、つい最近、といっても高度経済成長期がはじまるくらいまでだろうが、大半の日本人はそういったこと、神様がどこかにいるということを信じていた。
そういうことがなくなってしまったことが現代の社会のひずみを作り出しているのではないかと、そういったことを話していたのだ。
この本には村人が示す様々な神に対する畏れと感謝も書かれている。山の巨木への敬意、それがクライマックスのオオヤマビトの神様の祭りにむかっていくのだが、最初はそんなファンタジーめいた風習を半分バカにしてなじめなかった主人公が、すこしずつそういったことを通してひとはどう生きるべきか、どうつながるべきか、そういうことを学んでゆく。
著者はおそらく、人の根の部分をどこに求めるのか、そういったことを一部では書きたかったのではなかろうか。モデルになった場所は著者の祖母のふるさとの村だそうだが、そこと自身の都会での生活を比較したとき、人と人とのつながり、また人と自然のつながりの濃度の違い、そういったことを無意識に意識したのではないだろうか。
村の人たちは神様を通して根のところがお互いにつながっている。だから分かり合い助け合える。そういうものが都会にはない。僕も隣の家の家族のことを全く知らない。都会でなくてもこうだ。
こういうところでは町内の誰かがゴミ捨て場に不法投棄したマットレスがあちこち旅をすることは決してない。
それはきっと不自然なことであると著者は物語のひとつの側面として言いたかったように思う。
リアルなムラではこんなにさわやかな人たちばかりではなかろう。プライバシーがなく、嫉妬や噂話が人を窮屈にさせる。
しかし、物語ではそれもさわやかに受け止めている。まあ、そこはやっぱり小説として受け止めなければならないのだろう。
でも、僕は、そんな世界が嫌いではないと思う。きっと。(実際、放り込まれるとどんな印象を持つかはわからないけれども・・)
この小説を原作にして、「WOOD JOB!~神去なあなあ日常~」という映画が作られている。明日は雨の休日だ。DVDを借りてきて観ようと思っている。
小説で、主人公が片思いをする直紀という女性が出てくるのだが、この役は誰がやっているのかがものすごく気になる。無茶苦茶美人だが、ちょっとつっけんどんで、主人公を振り回すのだが、根は心優しい行動派。僕のイメージでは桜庭ななみしか思い浮かばない。
まだ、映画の予告編の動画も検索していない。これはDVDを見るまでの楽しみにしておきたいのだ。
この小説の舞台は、三重県の中西部にある神去村である。「なあなあ」というのは、「ゆっくりいこう」「まあ、落ち着け」という意味で、この村ではあいさつ代わりに使われるという設定である。
なかなか軟派な本だ。お仕事小説というジャンルがあるのかどうかは知らないが、若者が不本意ながら林業に挑むという設定だ。
ぼくがどうしてそんな軟派な小説を読もうとしたかというと、以前に読んだ、角幡唯介の本に三浦しおんとの対談が掲載されていて、この本を話題に上らせていた。
普通に読むと、都会の若者がひと癖もふた癖もある人たちに囲まれ、ドタバタに巻き込まれながらも小さな村の林業に携わることを通してたくましくなっていく、そこに「林業あるある」を挟み込んでというコメディタッチの物語なのだが、角幡唯介はその一場面、主人公の親方の子供が神隠しに遭うというところに注目していた。
実際小説の中では本当に神隠しに遭い、とんでもないところから子供は見つかるのだが、これは小説の中の話であって実社会の中で考えるとそんなことはありえず、また、読者は誰もそんなことを信じでいない。しかし、おそらく、つい最近、といっても高度経済成長期がはじまるくらいまでだろうが、大半の日本人はそういったこと、神様がどこかにいるということを信じていた。
そういうことがなくなってしまったことが現代の社会のひずみを作り出しているのではないかと、そういったことを話していたのだ。
この本には村人が示す様々な神に対する畏れと感謝も書かれている。山の巨木への敬意、それがクライマックスのオオヤマビトの神様の祭りにむかっていくのだが、最初はそんなファンタジーめいた風習を半分バカにしてなじめなかった主人公が、すこしずつそういったことを通してひとはどう生きるべきか、どうつながるべきか、そういうことを学んでゆく。
著者はおそらく、人の根の部分をどこに求めるのか、そういったことを一部では書きたかったのではなかろうか。モデルになった場所は著者の祖母のふるさとの村だそうだが、そこと自身の都会での生活を比較したとき、人と人とのつながり、また人と自然のつながりの濃度の違い、そういったことを無意識に意識したのではないだろうか。
村の人たちは神様を通して根のところがお互いにつながっている。だから分かり合い助け合える。そういうものが都会にはない。僕も隣の家の家族のことを全く知らない。都会でなくてもこうだ。
こういうところでは町内の誰かがゴミ捨て場に不法投棄したマットレスがあちこち旅をすることは決してない。
それはきっと不自然なことであると著者は物語のひとつの側面として言いたかったように思う。
リアルなムラではこんなにさわやかな人たちばかりではなかろう。プライバシーがなく、嫉妬や噂話が人を窮屈にさせる。
しかし、物語ではそれもさわやかに受け止めている。まあ、そこはやっぱり小説として受け止めなければならないのだろう。
でも、僕は、そんな世界が嫌いではないと思う。きっと。(実際、放り込まれるとどんな印象を持つかはわからないけれども・・)
この小説を原作にして、「WOOD JOB!~神去なあなあ日常~」という映画が作られている。明日は雨の休日だ。DVDを借りてきて観ようと思っている。
小説で、主人公が片思いをする直紀という女性が出てくるのだが、この役は誰がやっているのかがものすごく気になる。無茶苦茶美人だが、ちょっとつっけんどんで、主人公を振り回すのだが、根は心優しい行動派。僕のイメージでは桜庭ななみしか思い浮かばない。
まだ、映画の予告編の動画も検索していない。これはDVDを見るまでの楽しみにしておきたいのだ。