角幡唯介 「旅人の表現術」読了
著者は2010年に「開高健ノンフィクション賞」を受賞した探検家だ。以前に「空白の5マイル」という本を読んだがそれが受賞作品である。この本は、時間が前後して書かれていたり、地理的な位置関係も僕には理解しがたかったりしてあまり面白いと思わなかったのだが、著者が書く文体には何か引きつけられるものがあると初めて雑誌の連載を読んだ時から思っていた。
ついこの前、新聞のコラムにこの人の書いたものが掲載されていて久々に著作を探してみた。
このコラムも面白かった。著者はその頃、ロシアからカナダに向けて北極圏を旅(最近では海が凍ることが珍しくこのコースをたどれるのは珍しいことなのでぜひとも実現したいと考えていたそうだ。)をしようと考えていたのだがコロナウイルスの影響でカナダ政府がすべての人の入国を拒否したことでそれができなくなったことを奥さんからの衛星電話で知ることになる。周囲数千キロにわたって誰もいない世界で誰が感染者になって誰が感染源になるのかと愚痴をこぼしながら自分が世間と隔絶してしまっていて世界中がえらいことになっていることを露とも知らずに過ごしていたことの恐れ入り、最初に感染などというものは自分にはまったく無縁のものだと考えていたが後々に考えるとそれは大きな考え違いだったと認識した。そんな内容のコラムであった。
そんな著者が「冒険とは」ということについて、自身のエッセイ、コラム、対談などがまとめられている。
まず、冒険と探検というふたつの言葉の違いについていくつかの場所で言及している。冒険は個人的な事情にスポットを浴びせた言葉である。例えば途中で死んでしまっても冒険は冒険だが、探検はその内容なり結果を世間なりスポンサーなりに報告する義務が生じる。だから必ず生きて帰ってこなければならない。そういう違いがあるのだと著者は言う。著者の場合、自分の行動したことを最終的に本なり雑誌への連載なりで世間に対して知らしめたいという目的があるので、自身は探検家という肩書を名乗っているということだ。
この本では登山家についてたくさん言及されているのだが、登山家の中には明らかに山に登ることだけを目的とする人たちがいる。おそらく冒険家という範疇に属する人たちであるが、その人たちがどうして山に登るのかその理由を考察している。
著者の分析はこうだ。
『本当の生は死を取り込んだ時にしか感じられない』『冒険とは死を自らの生のなかに取り込むための作法である』『登山家が死をなかば覚悟して山に登ろうと決意するとき、そこには登山以外の人生の選択肢に対する完璧なる断念が含まれている。あなたにとって幸せとは何か。カネを稼ぐことか。なぜカネを稼ぐのか。いい車が欲しいからだ。なぜいい車が欲しいのか。いい女と付き合いたいからだ。なぜいい女と付き合いたいのか・・』こういった堂々巡りの末に出てくる答えは、『死なないため』にいきつく。そして登山家は死なないために死を自らの生の中に取り込む。ということは山に登るということは生きることそのものであるということに帰結する。
なかなか奥深い。禅の世界のようだ。冒険の定義のひとつとして著者は、「死を自己に取り込むための作法である。」と書いているのだが、要約するとこの言葉に集約されるということなのだろう。
死をリアルに意識できる場所が山である。それに加えて、著者は、登山(登山にかぎらず、冒険というものを行える自然世界全体がそうであるのだろうが。)とは、『社会で適用されている規範やルールとは無縁で、自分の裁量で命を管理しなければならない』ものであると書いている。
ひとは自由にあこがれる。登山家や冒険家が書いた文章に魅力を感じるのはそういった自由さに憧れを抱くからであろう。僕が船の釣りを楽しいと思うのは、それほど釣果が伴っていないことを考えると、多少航行上の制約やルールはあるものの、やはりそこにどこにでも、いつでも行けるという自由があるからなのかもしれない。
しかし、そこには、“自分の裁量で命を管理しなければならない”という不自由さというか、義務が生じる。しかし、昨今の観光化されてしまった登山、それは富士山への登山であったり、システム化されたエベレストへの登山を見ていると、その自由というものを人々は自ら放棄し始めているのではないかと著者は考えている。これは登山だけについて当てはまるのではなく、すべてのものについて当てはまるのではないか。著者はこんな言葉で、
『人々が思考を停止し、画一化の流れに身を任せ、誰かの扇動に盲目的にしたがったとき、その先には必ず何か恐ろしいことが待ちかまえている。』それを危惧している。
まさに今の日本人の政治に対する姿勢がそうなのではないか。政治的独裁もしくは一強政治をはぐくむ芽は、人々が面倒くさいことをすべて他人に丸投げすることから始まるという。そして声を上げないことがその芽を大きくしてゆく。まさにそれが、SNSで簡単に人の通ったルートを調べ、天気予報もスマホで調べて日帰りで岩登りや沢登りをして帰ってくるという行為と非常に似かよっている。そこには自分の思考というものは存在しないということだ。
自由であり続けるということは非常に難しい、しかし、それを放棄してはいけない。
本を読み進めると、著者の最大の関心事はこの、“自由”についてであるということが少しずつわかってくる。それをどう発信してゆくのか、それがタイトルの“表現術”に表れているのだと思った。
ジョージ富士川も言っているが、まさに『自由は不自由やで~。』と、きっと著者も言いたいのだ。
そして、「開高健ノンフィクション賞」を受賞したからというわけではないだろうが、師の著作や行動についてもいくつかの考えが掲載されている。
師のベトナムでの体験については「行動者ではなく、記録者であった」という書き方をしている。死というものを身近に感じたいという、「荒地」願望がベトナムに向かわせたと書いているけれども、その考えはちょっと違うのではないだろうか。
それよりも、人はどこまで残酷になれるのか、それは人の本性を見ることにもつながる。そんな人間の本質的なものを見極めたいという衝動があったのではないかと僕は考えている。傍観どころか、そこでは様々な人間の本質に迫って後の著作に反映されていると思う。
その後のビルケナウについての感想や晩年の著作などは、もう、人間のすべてをそぎ落とし、磨き倒してそれでも残った芯のなかの芯の部分をきっちり書ききっているのではないかと僕は思っている。生意気なようだが・・。
そして人生の後半の、釣りの旅の様々については、『「夏の闇」で自分自身を搾りに搾って蒸留して出したあの一滴を、適当に希釈させる方向でしか生きていけなかったのだろう。』そういう見解を示している。
それはある部分では的を射ているのかもしれないが、なんだか残酷な書き方だ。確かに師はその「夏の闇」以後小説が書けなくなり続編の「花終る闇」は未完で終わっているけれども、「釣り師は心に傷を負っているから釣りに行く・・」というように、自身の中に潜む闇にはきちんと対峙していたはずだ。それが「珠玉」に結実していると考えてもいいのではないだろうかと思うのだ。
著者は2010年に「開高健ノンフィクション賞」を受賞した探検家だ。以前に「空白の5マイル」という本を読んだがそれが受賞作品である。この本は、時間が前後して書かれていたり、地理的な位置関係も僕には理解しがたかったりしてあまり面白いと思わなかったのだが、著者が書く文体には何か引きつけられるものがあると初めて雑誌の連載を読んだ時から思っていた。
ついこの前、新聞のコラムにこの人の書いたものが掲載されていて久々に著作を探してみた。
このコラムも面白かった。著者はその頃、ロシアからカナダに向けて北極圏を旅(最近では海が凍ることが珍しくこのコースをたどれるのは珍しいことなのでぜひとも実現したいと考えていたそうだ。)をしようと考えていたのだがコロナウイルスの影響でカナダ政府がすべての人の入国を拒否したことでそれができなくなったことを奥さんからの衛星電話で知ることになる。周囲数千キロにわたって誰もいない世界で誰が感染者になって誰が感染源になるのかと愚痴をこぼしながら自分が世間と隔絶してしまっていて世界中がえらいことになっていることを露とも知らずに過ごしていたことの恐れ入り、最初に感染などというものは自分にはまったく無縁のものだと考えていたが後々に考えるとそれは大きな考え違いだったと認識した。そんな内容のコラムであった。
そんな著者が「冒険とは」ということについて、自身のエッセイ、コラム、対談などがまとめられている。
まず、冒険と探検というふたつの言葉の違いについていくつかの場所で言及している。冒険は個人的な事情にスポットを浴びせた言葉である。例えば途中で死んでしまっても冒険は冒険だが、探検はその内容なり結果を世間なりスポンサーなりに報告する義務が生じる。だから必ず生きて帰ってこなければならない。そういう違いがあるのだと著者は言う。著者の場合、自分の行動したことを最終的に本なり雑誌への連載なりで世間に対して知らしめたいという目的があるので、自身は探検家という肩書を名乗っているということだ。
この本では登山家についてたくさん言及されているのだが、登山家の中には明らかに山に登ることだけを目的とする人たちがいる。おそらく冒険家という範疇に属する人たちであるが、その人たちがどうして山に登るのかその理由を考察している。
著者の分析はこうだ。
『本当の生は死を取り込んだ時にしか感じられない』『冒険とは死を自らの生のなかに取り込むための作法である』『登山家が死をなかば覚悟して山に登ろうと決意するとき、そこには登山以外の人生の選択肢に対する完璧なる断念が含まれている。あなたにとって幸せとは何か。カネを稼ぐことか。なぜカネを稼ぐのか。いい車が欲しいからだ。なぜいい車が欲しいのか。いい女と付き合いたいからだ。なぜいい女と付き合いたいのか・・』こういった堂々巡りの末に出てくる答えは、『死なないため』にいきつく。そして登山家は死なないために死を自らの生の中に取り込む。ということは山に登るということは生きることそのものであるということに帰結する。
なかなか奥深い。禅の世界のようだ。冒険の定義のひとつとして著者は、「死を自己に取り込むための作法である。」と書いているのだが、要約するとこの言葉に集約されるということなのだろう。
死をリアルに意識できる場所が山である。それに加えて、著者は、登山(登山にかぎらず、冒険というものを行える自然世界全体がそうであるのだろうが。)とは、『社会で適用されている規範やルールとは無縁で、自分の裁量で命を管理しなければならない』ものであると書いている。
ひとは自由にあこがれる。登山家や冒険家が書いた文章に魅力を感じるのはそういった自由さに憧れを抱くからであろう。僕が船の釣りを楽しいと思うのは、それほど釣果が伴っていないことを考えると、多少航行上の制約やルールはあるものの、やはりそこにどこにでも、いつでも行けるという自由があるからなのかもしれない。
しかし、そこには、“自分の裁量で命を管理しなければならない”という不自由さというか、義務が生じる。しかし、昨今の観光化されてしまった登山、それは富士山への登山であったり、システム化されたエベレストへの登山を見ていると、その自由というものを人々は自ら放棄し始めているのではないかと著者は考えている。これは登山だけについて当てはまるのではなく、すべてのものについて当てはまるのではないか。著者はこんな言葉で、
『人々が思考を停止し、画一化の流れに身を任せ、誰かの扇動に盲目的にしたがったとき、その先には必ず何か恐ろしいことが待ちかまえている。』それを危惧している。
まさに今の日本人の政治に対する姿勢がそうなのではないか。政治的独裁もしくは一強政治をはぐくむ芽は、人々が面倒くさいことをすべて他人に丸投げすることから始まるという。そして声を上げないことがその芽を大きくしてゆく。まさにそれが、SNSで簡単に人の通ったルートを調べ、天気予報もスマホで調べて日帰りで岩登りや沢登りをして帰ってくるという行為と非常に似かよっている。そこには自分の思考というものは存在しないということだ。
自由であり続けるということは非常に難しい、しかし、それを放棄してはいけない。
本を読み進めると、著者の最大の関心事はこの、“自由”についてであるということが少しずつわかってくる。それをどう発信してゆくのか、それがタイトルの“表現術”に表れているのだと思った。
ジョージ富士川も言っているが、まさに『自由は不自由やで~。』と、きっと著者も言いたいのだ。
そして、「開高健ノンフィクション賞」を受賞したからというわけではないだろうが、師の著作や行動についてもいくつかの考えが掲載されている。
師のベトナムでの体験については「行動者ではなく、記録者であった」という書き方をしている。死というものを身近に感じたいという、「荒地」願望がベトナムに向かわせたと書いているけれども、その考えはちょっと違うのではないだろうか。
それよりも、人はどこまで残酷になれるのか、それは人の本性を見ることにもつながる。そんな人間の本質的なものを見極めたいという衝動があったのではないかと僕は考えている。傍観どころか、そこでは様々な人間の本質に迫って後の著作に反映されていると思う。
その後のビルケナウについての感想や晩年の著作などは、もう、人間のすべてをそぎ落とし、磨き倒してそれでも残った芯のなかの芯の部分をきっちり書ききっているのではないかと僕は思っている。生意気なようだが・・。
そして人生の後半の、釣りの旅の様々については、『「夏の闇」で自分自身を搾りに搾って蒸留して出したあの一滴を、適当に希釈させる方向でしか生きていけなかったのだろう。』そういう見解を示している。
それはある部分では的を射ているのかもしれないが、なんだか残酷な書き方だ。確かに師はその「夏の闇」以後小説が書けなくなり続編の「花終る闇」は未完で終わっているけれども、「釣り師は心に傷を負っているから釣りに行く・・」というように、自身の中に潜む闇にはきちんと対峙していたはずだ。それが「珠玉」に結実していると考えてもいいのではないだろうかと思うのだ。