イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「神去なあなあ夜話」読了

2020年07月08日 | 2020読書
三浦しおん 「神去なあなあ夜話」読了

「神去なあなあ日常」の続編だ。角幡唯介との対談で、「なあなあ日常」は林業に振りすぎたので、神去村についての記述をもっとしっかりしたかったということでこの続編を書いたと言っていた。どちらかというと“日常”はこっちの方が色濃いかもしれない。
「なあなあ日常」はある年の1年間、「なあなあ夜話」はその後の1年間という流れで書かれている。もちろん、主人公と直紀との関係がどう進んだかということも書かれている。

そこには村という集団がどうやって結束を固めて時代を繋いできたかということが書かれている。人は死ぬと魂は神去山に棲んでいるオオヤマツミノカミの元に帰ってゆく。村人たちは大いなる魂の流れの中でひとつになっている。これが一番の根底になっている。全員が同じ考えを持っているから職業や年齢の違いを超えて同じ価値観で生きることができる。
いつかはそこへ戻っていくのだという考えというのは貴重だ。それこそ、“根”という感覚というものだろうか。どこにいても帰る場所がある。その安心感というのは人にとって重要なものだと思うのだ。根を持たなくてもノマド感というもので人生を送ることができる人もいるのだろうがそれはきっとごく少数に違いない。とくに日本人は。
僕もそのひとりだろう。意味もなく、前に進めない夢を見てしまうのも、どこか、根を探さなくてはならないという焦りかもしれない。

ムラ社会というのは閉鎖的で外からのものを受け入れない。これをムラの悪とよぶ人もいるのだろうが、それはきっとそれを信じることができないよそ者のほうが悪いのかもしれないとこの本を読んでいると思えるところがある。まあ、登場人物がすべて善人であるという想像上の設定というところも大きいかもしれないが・・。

しかし、まったく違う場所から集まってきた人の中でお金をもらい、生活とは切り離され、生活の中でも全く違う場所からやってきた人たちが何の交流もなく生きている。どこどこの誰がいつ何をしていたというのがつつぬけというのもあれだが、マットレスを不法投棄したのが誰だかまったくわからないというのも異常だ。よく考えるとやっぱりそれはおかしなことかもしれない。物語ではそのつつぬけ具合も小気味よく表現されていた。主人公は直紀さんとの接近戦略に巧みに利用していた。
そんないびつな生活様式を維持するために膨大なお金とエネルギーを必要とする。
それが今の社会のような気がするのだ。他人からの干渉を避ける、自らひとりでムラ社会を築くための経費だ。
物語の登場人物たちはそのエネルギーを使う代わりに濃厚な人間関係の中で生きている。
それは一面では相当面倒くさいことかもしれないが、実は人の本来の生き方というのはそういうものであるのかもしれない。そしてその中心には神様がいて人々も神様にいつも見られているから秩序を守る。タガにもなりゆりかごにもなるというのが神様だ。

今回のコロナショックでは日本は他国に比べて感染拡大を防げているということになっているが、日本人がこういう濃厚な交流を失くしてしまった結果ではないのだろうか。
それはいいことだったのかそうでなかったのか・・。


映画の方というと、直紀役は長澤まさみだった。6年前の映画だから桜庭みなみではちょっと若すぎたのだろうか・・。それはそれで長澤まさみもはまっていた。
本とはかなりストーリーと登場人物の立場が違ったりしたが、なかなかエスプリは汲みだしていたような気がする。

僕も角幡唯介の本を読んでいなかったらこの映画もただのお仕事映画(そんなジャンルがあるのかどうかは知らないが・・)として見ていたのかもしれない。
その物語に神様の存在というのが相当なふくらみを与えてくれたような気がする。
そもそも、この本を読むこともなかったのかもしれない。

コメント
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