内山節 「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」読了
神去村の余韻がまだ続いている。こういう小説が成立するということはそれが今では特殊な世界になってしまったということを物語っている。じゃあ、そういうことが特殊ではなかったころはいつごろか、そしてそれはどうして特殊な世界になったのかということをこの本は分析している。
そして著者は、その境目を1965年であると決定した。1年の約半分を群馬県の上野村で暮らし、全国を旅する機会の多い哲学者は地元や行く先々で、キツネにつままれたという話を聞くと、ことごとく1965年でそれが途切れているということに気付き、その原因を聞き取りのなかかから以下のようにまとめた。
①高度経済成長期の人間の変化。・・・燃料革命、農村部の人口の流出により、経済を媒介としたコミュニケーションが中心になってしまい、非経済的なものに包まれて生命を維持しているという感覚を失くした。
②科学の時代における人間の変化。・・・敗戦後、科学的に説明できないものはすべて誤りであるという考えが広まった。
③情報、コミュニケーションの変化。・・・電話、テレビの普及し、自然という情報源が必要とされなくなった。
④進学率の高まり。・・・村の教育で重要な役割を果たしたのは「通過儀礼」「年中行事」であった。それが受験能力が優先されるようになった。そして村で生きていくノウハウが教えられなくなった。
⑤死生観の変化。・・・生も死も個人の物になってしまった。かつては個人の生や死は自然やそれと結ばれた神仏の世界、村の共同体が包んでいた。
⑥自然観の変化。・・・人間の中にある内なる自然がなくなった。かつてはジネンと読まれていた自然、それはおのずから出でておのずからの世界に帰る。そういう意味を持っており、それは我を捨てて自然のままに生きるという大乗的な生き方につながったのであるが、そういうものがなくなってしまった。(このへんはかなり哲学的であまりよくわからない。)
これらは、すなわち、人間のキツネに騙される能力が減退したということである。
そして、自然破壊は、人をだます能力のある老齢なキツネが暮らせる環境を奪ってしまった。森は人工林に替わり、多様な自然が失われた。
総合すると、日本の人々が受け継いできた伝統的な精神が衰弱し日本の自然が大きく変わり、自然と人のコミュニケーションが変容したのがオリンピック景気に沸いた高度経済成長末期の1965年であった。ということになる。
そして著者は哲学者として人間の歴史感の面からも分析をおこなっている。
古来から歴史というものは征服者側から書き綴られてきた。そしてその歴史は常に過去から未来へ進歩してきた歴史として綴られる。それがそのまま征服者の有能性と正当性を保証させるものであった。それは物質的、科学的に目に見える、証明できるもののみが残されてきた。これを知性で書かれた歴史と呼ぶ。しかし、その周りには広大な見えない歴史があったはずだという。それは身体や生命の記憶として形成されてきた歴史である。
知性によって書かれた歴史は未来に向かって一方通行の歴史であるのに対して身体や生命の記憶として形成されてきた歴史は循環の歴史である。それは人と共に生まれて人と共に死んでゆくが次の世代に必ず受け継がれてゆく。村の社会ではその循環の歴史が必要であった。そして、現代社会はその、身体や生命の記憶が置き去りにされた社会であるという。体だけがあり、その中の心がどこかに行ってしまった。そのこころにこそキツネにだまされるという現象がはいりこむ余地があったというのである。
著者はきっと、一方通行の世界はいつかはきっと行き止まりを迎えるときがくる。だから循環の歴史の世界を取り戻さなければならないとそう考えているのではないだろうか。
しかし、オリンピックの次は万博。この国の正史を作っている人たちはまだまだ一方通行の歴史作りに邁進しているようだ。まだまだキツネは戻ってくることはできないのだろう。
じゃあ、コロナウイルスは神様が放ったそれに対する警鐘ではないのかとも思えてくる。
神去村の余韻がまだ続いている。こういう小説が成立するということはそれが今では特殊な世界になってしまったということを物語っている。じゃあ、そういうことが特殊ではなかったころはいつごろか、そしてそれはどうして特殊な世界になったのかということをこの本は分析している。
そして著者は、その境目を1965年であると決定した。1年の約半分を群馬県の上野村で暮らし、全国を旅する機会の多い哲学者は地元や行く先々で、キツネにつままれたという話を聞くと、ことごとく1965年でそれが途切れているということに気付き、その原因を聞き取りのなかかから以下のようにまとめた。
①高度経済成長期の人間の変化。・・・燃料革命、農村部の人口の流出により、経済を媒介としたコミュニケーションが中心になってしまい、非経済的なものに包まれて生命を維持しているという感覚を失くした。
②科学の時代における人間の変化。・・・敗戦後、科学的に説明できないものはすべて誤りであるという考えが広まった。
③情報、コミュニケーションの変化。・・・電話、テレビの普及し、自然という情報源が必要とされなくなった。
④進学率の高まり。・・・村の教育で重要な役割を果たしたのは「通過儀礼」「年中行事」であった。それが受験能力が優先されるようになった。そして村で生きていくノウハウが教えられなくなった。
⑤死生観の変化。・・・生も死も個人の物になってしまった。かつては個人の生や死は自然やそれと結ばれた神仏の世界、村の共同体が包んでいた。
⑥自然観の変化。・・・人間の中にある内なる自然がなくなった。かつてはジネンと読まれていた自然、それはおのずから出でておのずからの世界に帰る。そういう意味を持っており、それは我を捨てて自然のままに生きるという大乗的な生き方につながったのであるが、そういうものがなくなってしまった。(このへんはかなり哲学的であまりよくわからない。)
これらは、すなわち、人間のキツネに騙される能力が減退したということである。
そして、自然破壊は、人をだます能力のある老齢なキツネが暮らせる環境を奪ってしまった。森は人工林に替わり、多様な自然が失われた。
総合すると、日本の人々が受け継いできた伝統的な精神が衰弱し日本の自然が大きく変わり、自然と人のコミュニケーションが変容したのがオリンピック景気に沸いた高度経済成長末期の1965年であった。ということになる。
そして著者は哲学者として人間の歴史感の面からも分析をおこなっている。
古来から歴史というものは征服者側から書き綴られてきた。そしてその歴史は常に過去から未来へ進歩してきた歴史として綴られる。それがそのまま征服者の有能性と正当性を保証させるものであった。それは物質的、科学的に目に見える、証明できるもののみが残されてきた。これを知性で書かれた歴史と呼ぶ。しかし、その周りには広大な見えない歴史があったはずだという。それは身体や生命の記憶として形成されてきた歴史である。
知性によって書かれた歴史は未来に向かって一方通行の歴史であるのに対して身体や生命の記憶として形成されてきた歴史は循環の歴史である。それは人と共に生まれて人と共に死んでゆくが次の世代に必ず受け継がれてゆく。村の社会ではその循環の歴史が必要であった。そして、現代社会はその、身体や生命の記憶が置き去りにされた社会であるという。体だけがあり、その中の心がどこかに行ってしまった。そのこころにこそキツネにだまされるという現象がはいりこむ余地があったというのである。
著者はきっと、一方通行の世界はいつかはきっと行き止まりを迎えるときがくる。だから循環の歴史の世界を取り戻さなければならないとそう考えているのではないだろうか。
しかし、オリンピックの次は万博。この国の正史を作っている人たちはまだまだ一方通行の歴史作りに邁進しているようだ。まだまだキツネは戻ってくることはできないのだろう。
じゃあ、コロナウイルスは神様が放ったそれに対する警鐘ではないのかとも思えてくる。