中村圭志 「死とは何か―宗教が挑んできた人生最後の謎 」読了
年末年始に読んでいたのがこの本だ。タイトルをみて、なかなか意味深なタイトルだが、一休禅師も、「門松は冥土の旅の一里塚・・」とおっしゃっているくらいだからこういう時期に読むというのもいいのかもしれない。
「死」というものをどう理解するか・・。いろいろなアプローチがありそうだ。生物学的、哲学的、宗教的、心理的・・。メインのタイトルだけを見ただけで借りたのだが、それほど深刻なものではなく、世界の宗教は死後の世界をどう描いてきたかというものであった。
死後の世界はあるのか?おそらく99.9999‥%ない。それでも人の心は不思議だ。体とはまったく別の存在のような気がする。心は鼻血が出てほしくなくても体は勝手に鼻血を出す。という経験をつい最近したところだ。
今では脳の電気信号の集合が心の正体だというのはなんとなく分かってきているようだが、数千年前にはそうもいかない。体が朽ち果てたのち、心と体は分離して人の魂はこの世界とは別の世界に行くのだと考えても不思議ではない。また、人間は先だった人のことを忘れることができない。故人への思慕と死体への嫌悪感の板挟みから、「あいつはまだ生きている」という存在感の意識に見合った仮想のキャラクター、「霊魂」の存在を考えるようになった。まあ、それでも、別の世界に行かなくてもこの世界で共存していると考えてもいいのではないかと思うが、やはりこの世界というのは生きづらいところだから死んで後までここには居たくないというのがこういうことを考えた人たちの正直な思いでもあったのであろう。
この本は、世界の人々が想像した死後の世界をクールに面白く紹介している。著者は宗教学者であるが、宗教家ではないのでそこはクールに見ているのである。
150人以上の集団をまとめるためには共通の神話や宗教が必要になってくるそうだ。(これをダンパー数というそうだ。)3千年前のペルシャでもっとたくさんの人々をまとめるために死後の世界を利用した人たちがいた。ゾロアスター教を生み出した人たちだ。その世界観はユダヤ教やキリスト教がもつ、終末、救世主、復活、審判というような考えに影響を及ぼしたし、閻魔大王が人間の死後に審判を下すというヒンズー教や仏教の終末観に影響を与えるものであった。「拝火教」という別名があるくらいだから、地獄でもやたらと火が出てくる。
その考え方が画期的だったのかどうか、その考え方は東西に広がってゆく。西へはギリシャ神話、旧約聖書、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教へ、東へは仏教として。
オルフェンスとイザナギの黄泉の世界の体験のように、世界の東と西でよく似た神話や死後の世界が存在するのは出所が同じであったということだろう。
時代が進むと、死後の世界はもっと複雑化してくる。しかし、そこには精緻さはない。すべては想像と話を作ったひとの思うままに描かれたような世界だ。まあ、実体がない(はずな)のだからそれは無理もない。今でいうなら架空の町をゲームの中の画面に創るようなものだろう。
しかし、こういうことを言ったり書いたり、当然ありもしないハッタリを堂々と発表してきた人たちには後ろめたさというのはなかったのだろうかと思う。
その到達点が「往生要集」と「神曲」だろう。
この2編が書かれた趣旨はというと、現世の人たちの規律を守るためであり、変なことをやっていたら死んだ後にえらい目に遭うぞいう戒めであった。だから、やたらと地獄の描写が多い。こういうのを見ていると人間の常は悪なのであると思ってしまう。
ただ、今の感覚から見るとやはりオカルト、こっけい、ご都合、行き当たりばったりな内容のように見える。煉獄などという、現世の人たちに忖度したようなものまで登場してくる。
これが中世以前頃までの来世観だが、本の内容は近代の死生観に移ってゆく。さすが時代が新しくなっていくほど、普通の人は天国や地獄が実在するとはおもっていなかったが、本居宣長のように、来世はあるかもしれないけれどもただこっちからはわからないだけだという不可知的なものだと考える人もいたし、19世紀になっても心霊現象を真剣に信じる人もいた。儒教もそういうところはかなりクールで、そうやって先祖の魂を敬うというのはいい事だが、それと天国や地獄が実在するかということは別であると考えた。本居宣長はそういう考えかたを継承していたのだ。その後も大戦が起こるたびに戦争で亡くなった人たちが目の前に現れるという心霊主義が求められたりした。
信じられないけど信じたい。それが現代の死生観だろうが、この本の中のこういう一節にそれがよく説明されている。『人間一般の問題として論じる生死菅と、自分自身が危機を迎えているときの――「生命飢餓状態に置かれている場合の」――生死菅とでは異なる。彼自身は自己の生死観として、死を「別れのとき」という意味を持つものとして、それを立派に演じられるように心の準備をすることを自らに求めている。死は避けられないものであり、しかももはや来世を中世人のようには信じられなくなった現代人としてはこれがぎりぎり現実的な生死観である』
僕自身も死んでしまったら何も残らない。魂などというものは存在せず、あの世もないと思っている。善い行いをしようが、悪いことをしようがそれが因果で何がどうなるかということなどは絶対にないと思っている。一応、悪いことをしようとする前には、「僕に罰を与える存在はこの世にはない・・。」とひと呼吸おいてからコトに及ぶのであるが・・。
しかし、ただ無に帰っていくだけだとわかっていながらそれが怖くなることもある。ただ、死の直前、どんな気持ちでいるのかはその時になってみなければわからない。西田敏行や中山美穂のように、この世でこれからやらねばならないことがまだまだあるのだと悔いを残して死んでいくのではないということだけは確かだ。
まあ、死んでからも実は生き続けていて、今のように何もかもに対して悩み続けるくらいなら何もない世界に帰ってゆくほうがよほど楽だとも思うのである。
なんかだオカルト的な本だと思いながらも、ものすごく色々なことを考えさせられる1冊であった。
著者はシリーズとして同じ中公新書からいくつかの本を出版しているそうだ。この人の本ならほかの物も読んでみたいと思っている。
年末年始に読んでいたのがこの本だ。タイトルをみて、なかなか意味深なタイトルだが、一休禅師も、「門松は冥土の旅の一里塚・・」とおっしゃっているくらいだからこういう時期に読むというのもいいのかもしれない。
「死」というものをどう理解するか・・。いろいろなアプローチがありそうだ。生物学的、哲学的、宗教的、心理的・・。メインのタイトルだけを見ただけで借りたのだが、それほど深刻なものではなく、世界の宗教は死後の世界をどう描いてきたかというものであった。
死後の世界はあるのか?おそらく99.9999‥%ない。それでも人の心は不思議だ。体とはまったく別の存在のような気がする。心は鼻血が出てほしくなくても体は勝手に鼻血を出す。という経験をつい最近したところだ。
今では脳の電気信号の集合が心の正体だというのはなんとなく分かってきているようだが、数千年前にはそうもいかない。体が朽ち果てたのち、心と体は分離して人の魂はこの世界とは別の世界に行くのだと考えても不思議ではない。また、人間は先だった人のことを忘れることができない。故人への思慕と死体への嫌悪感の板挟みから、「あいつはまだ生きている」という存在感の意識に見合った仮想のキャラクター、「霊魂」の存在を考えるようになった。まあ、それでも、別の世界に行かなくてもこの世界で共存していると考えてもいいのではないかと思うが、やはりこの世界というのは生きづらいところだから死んで後までここには居たくないというのがこういうことを考えた人たちの正直な思いでもあったのであろう。
この本は、世界の人々が想像した死後の世界をクールに面白く紹介している。著者は宗教学者であるが、宗教家ではないのでそこはクールに見ているのである。
150人以上の集団をまとめるためには共通の神話や宗教が必要になってくるそうだ。(これをダンパー数というそうだ。)3千年前のペルシャでもっとたくさんの人々をまとめるために死後の世界を利用した人たちがいた。ゾロアスター教を生み出した人たちだ。その世界観はユダヤ教やキリスト教がもつ、終末、救世主、復活、審判というような考えに影響を及ぼしたし、閻魔大王が人間の死後に審判を下すというヒンズー教や仏教の終末観に影響を与えるものであった。「拝火教」という別名があるくらいだから、地獄でもやたらと火が出てくる。
その考え方が画期的だったのかどうか、その考え方は東西に広がってゆく。西へはギリシャ神話、旧約聖書、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教へ、東へは仏教として。
オルフェンスとイザナギの黄泉の世界の体験のように、世界の東と西でよく似た神話や死後の世界が存在するのは出所が同じであったということだろう。
時代が進むと、死後の世界はもっと複雑化してくる。しかし、そこには精緻さはない。すべては想像と話を作ったひとの思うままに描かれたような世界だ。まあ、実体がない(はずな)のだからそれは無理もない。今でいうなら架空の町をゲームの中の画面に創るようなものだろう。
しかし、こういうことを言ったり書いたり、当然ありもしないハッタリを堂々と発表してきた人たちには後ろめたさというのはなかったのだろうかと思う。
その到達点が「往生要集」と「神曲」だろう。
この2編が書かれた趣旨はというと、現世の人たちの規律を守るためであり、変なことをやっていたら死んだ後にえらい目に遭うぞいう戒めであった。だから、やたらと地獄の描写が多い。こういうのを見ていると人間の常は悪なのであると思ってしまう。
ただ、今の感覚から見るとやはりオカルト、こっけい、ご都合、行き当たりばったりな内容のように見える。煉獄などという、現世の人たちに忖度したようなものまで登場してくる。
これが中世以前頃までの来世観だが、本の内容は近代の死生観に移ってゆく。さすが時代が新しくなっていくほど、普通の人は天国や地獄が実在するとはおもっていなかったが、本居宣長のように、来世はあるかもしれないけれどもただこっちからはわからないだけだという不可知的なものだと考える人もいたし、19世紀になっても心霊現象を真剣に信じる人もいた。儒教もそういうところはかなりクールで、そうやって先祖の魂を敬うというのはいい事だが、それと天国や地獄が実在するかということは別であると考えた。本居宣長はそういう考えかたを継承していたのだ。その後も大戦が起こるたびに戦争で亡くなった人たちが目の前に現れるという心霊主義が求められたりした。
信じられないけど信じたい。それが現代の死生観だろうが、この本の中のこういう一節にそれがよく説明されている。『人間一般の問題として論じる生死菅と、自分自身が危機を迎えているときの――「生命飢餓状態に置かれている場合の」――生死菅とでは異なる。彼自身は自己の生死観として、死を「別れのとき」という意味を持つものとして、それを立派に演じられるように心の準備をすることを自らに求めている。死は避けられないものであり、しかももはや来世を中世人のようには信じられなくなった現代人としてはこれがぎりぎり現実的な生死観である』
僕自身も死んでしまったら何も残らない。魂などというものは存在せず、あの世もないと思っている。善い行いをしようが、悪いことをしようがそれが因果で何がどうなるかということなどは絶対にないと思っている。一応、悪いことをしようとする前には、「僕に罰を与える存在はこの世にはない・・。」とひと呼吸おいてからコトに及ぶのであるが・・。
しかし、ただ無に帰っていくだけだとわかっていながらそれが怖くなることもある。ただ、死の直前、どんな気持ちでいるのかはその時になってみなければわからない。西田敏行や中山美穂のように、この世でこれからやらねばならないことがまだまだあるのだと悔いを残して死んでいくのではないということだけは確かだ。
まあ、死んでからも実は生き続けていて、今のように何もかもに対して悩み続けるくらいなら何もない世界に帰ってゆくほうがよほど楽だとも思うのである。
なんかだオカルト的な本だと思いながらも、ものすごく色々なことを考えさせられる1冊であった。
著者はシリーズとして同じ中公新書からいくつかの本を出版しているそうだ。この人の本ならほかの物も読んでみたいと思っている。
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