梅原猛 「最澄と空海」読了
梅原猛先生の、最澄と空海について、その思想や生き方を比較して書かれたものだ。
どこかで講義をした内容を文章に起こしたというような構成で、以前に読んだ、「最澄瞑想」という本と相当かぶっている感じがした。
最澄と空海の違いをひとことで言うと・・。それはきっと一言では言えないのかもしれないが、それでも一言で言うと、最澄は様々な知恵を取り込んでひとつにまとめ上げてゆくタイプで空海は自分の才能を信じてその能力にすべてを託して走り抜けるというタイプだろうか。
最澄はその知恵を次の代に様々な形で花開かせた。四宗兼学といって天台、密教、禅、律の勉強をする場所として延暦寺を作った。そこから法然や親鸞、道元ほかにもたくさんの弟子が新しい教団を作った。対して空海はひとつの教えを自分の代で極限にまで高めた。それが空海にとって究極の完成形であったから真言宗からは宗派の分離はあったけれどもまったく新しい教団は生まれていない。
また、空海が最澄に送った手紙の中には、「天台の教えは利他にとらわれて本当の喜びを得られないが、密教の教えは自利の教えでありもっと高い喜びの思想である。」と語っているのに対して、最澄の文章には、「たえず他人のためにしようとしてそれができない悲しみ」があふれているという。ここにも自信家の空海と、学んでも学んでも満たされることのない最澄の謙虚さという対比がある。
最澄は自分の思想が完成できない中でも衆生の救済をしていかねばならないと考えていたが、空海は、まず自分が完全体とならなければ衆生を救えないと考えた。それが自利の教えであるということになり、即身成仏という考えはそういうところから出てくるのだろうけれども、ここにも空海の自信というか、確信というものがうかがえる。
「衣食足りて礼節を知る」ということわざのとおり、まずは自分が足りていないと人のことを考える余裕がないだろうという考えのほうが人間的だと思うのは僕が薄情すぎるからなのだろうか・・。
どちらがどうとかいうことはないけれども、それぞれの教団を会社組織とたとえて、どっちが上司ならいいだろうかと考えると、最澄のほうが優しそうだなどと思ったりする。
わが社のボスはどっちのタイプだろうか。いつも自分は偉大な人間だと言いふらししていて、他人をバカにしていたから、最澄も空海も飛び越えて、「天上天下唯我独尊」と言ったお釈迦さまか大日如来だったりするのだろうか・・。それではお釈迦様と大日如来に失礼か・・。
しかし、優しそうな最澄も、山家学生式の中で、これは、比叡山での僧侶の育成を規定し、比叡山自身に戒壇を設けたいことを嵯峨天皇に奏上した文書なのだが、その一部に、人の質について書かれた部分がある。
よくいい、よく行うことができる人、は国の宝である。(「いい」とは学識があるということ。「行う」とは行動力がある人のことである。)“国の宝”というのはまあ、自分のことを指しているらしい。
そして、よくいってよく行うことができない人は国の師すなわち学者になればよい。よくいうことができないがよく行うことができる人は国の用になる。すなわち実際人(政治家や実業家)になればよいと書いている。しかし、よくいうこともよくおこなうこともできない人はどうすればよいのか、それは書かれていない。そんな人は救われないということだろうか・・。
これでは僕みたいな人間は使い物にならないからすぐにリストラをされてしまうということだったりするのだろうな。
これはこれで手厳しい。
空海は空海で、自分があまりにもできすぎるからまったく仕事ができない人間の哀しみなどというものに同情してくれそうにない。
どちらにしても天才のもとに仕えるのは大変なようだ。凡人は地べたを這いつくばって生きるしかない・・。
即身成仏というと、最近よく聞く、“3密”というのは密教の用語だそうだ。その3つとは、身密,口密,意密(肉体、言葉、意識)といい、人間の生命を構成するものと定義されている。誰でも持っているその三密は大日如来とつながっており、そのつながりを認識することで即身成仏、すなわち、生きながらにして仏になることができるというのが密教の基本的考えだ。身、口、意には大日如来と一体になれる秘密が隠されている。だから三密なのだ。
それを誰がコロナ対策に転用したのかしらないが、お大師様も困っているに違いない。
そして、普通の仏教(顕教)では、その身、口、意は欲望の元であるからそれらから逃れるために諦観という境地になるまで修行をしなければならないとしているのだが、密教の考えは、その、“逃れたい”と思う心自体が欲望であるのだからそれさえも超越した、“空”の心が必要でそれを得るためにはすべての欲望を肯定するべきだということになる。
まったく斬新すぎる考えに恐れ入ってしまう。そしてそれが発展してくると、親鸞の肉食妻帯もかまわないということになるらしい。
話は全く変わるが高野山では、今年の10月16日からいろいろな場所の拝観料が値上げされるらしい。
霊宝館は600円が一気に1300円になるらしい。金剛峯寺も1000円になる。駐車場の有料化は回避されたようだが、この値上げはきつい。奈良や京都の施設の料金と比較した結果ということだが、もう、生涯霊宝館には行けなくなってしまう。
金剛峯寺では投資ファンドにお金をつぎ込んで失敗したというようなニュースがあったし、高野町もふるさと納税で派手にやりすぎて対象から外されていた。みんなそこまであくせくしてお金儲けをしなくてもいいだろう。空海は京都の廃頽した仏教から距離を置くために高野山にこもったのではなかったのか。その廃頽した世界をまねる必要はなかろうと思うのだ。いくら欲望を全開にしてもいいからという教えでも聖地にお金の臭いは似合わないのだ。
梅原猛先生の、最澄と空海について、その思想や生き方を比較して書かれたものだ。
どこかで講義をした内容を文章に起こしたというような構成で、以前に読んだ、「最澄瞑想」という本と相当かぶっている感じがした。
最澄と空海の違いをひとことで言うと・・。それはきっと一言では言えないのかもしれないが、それでも一言で言うと、最澄は様々な知恵を取り込んでひとつにまとめ上げてゆくタイプで空海は自分の才能を信じてその能力にすべてを託して走り抜けるというタイプだろうか。
最澄はその知恵を次の代に様々な形で花開かせた。四宗兼学といって天台、密教、禅、律の勉強をする場所として延暦寺を作った。そこから法然や親鸞、道元ほかにもたくさんの弟子が新しい教団を作った。対して空海はひとつの教えを自分の代で極限にまで高めた。それが空海にとって究極の完成形であったから真言宗からは宗派の分離はあったけれどもまったく新しい教団は生まれていない。
また、空海が最澄に送った手紙の中には、「天台の教えは利他にとらわれて本当の喜びを得られないが、密教の教えは自利の教えでありもっと高い喜びの思想である。」と語っているのに対して、最澄の文章には、「たえず他人のためにしようとしてそれができない悲しみ」があふれているという。ここにも自信家の空海と、学んでも学んでも満たされることのない最澄の謙虚さという対比がある。
最澄は自分の思想が完成できない中でも衆生の救済をしていかねばならないと考えていたが、空海は、まず自分が完全体とならなければ衆生を救えないと考えた。それが自利の教えであるということになり、即身成仏という考えはそういうところから出てくるのだろうけれども、ここにも空海の自信というか、確信というものがうかがえる。
「衣食足りて礼節を知る」ということわざのとおり、まずは自分が足りていないと人のことを考える余裕がないだろうという考えのほうが人間的だと思うのは僕が薄情すぎるからなのだろうか・・。
どちらがどうとかいうことはないけれども、それぞれの教団を会社組織とたとえて、どっちが上司ならいいだろうかと考えると、最澄のほうが優しそうだなどと思ったりする。
わが社のボスはどっちのタイプだろうか。いつも自分は偉大な人間だと言いふらししていて、他人をバカにしていたから、最澄も空海も飛び越えて、「天上天下唯我独尊」と言ったお釈迦さまか大日如来だったりするのだろうか・・。それではお釈迦様と大日如来に失礼か・・。
しかし、優しそうな最澄も、山家学生式の中で、これは、比叡山での僧侶の育成を規定し、比叡山自身に戒壇を設けたいことを嵯峨天皇に奏上した文書なのだが、その一部に、人の質について書かれた部分がある。
よくいい、よく行うことができる人、は国の宝である。(「いい」とは学識があるということ。「行う」とは行動力がある人のことである。)“国の宝”というのはまあ、自分のことを指しているらしい。
そして、よくいってよく行うことができない人は国の師すなわち学者になればよい。よくいうことができないがよく行うことができる人は国の用になる。すなわち実際人(政治家や実業家)になればよいと書いている。しかし、よくいうこともよくおこなうこともできない人はどうすればよいのか、それは書かれていない。そんな人は救われないということだろうか・・。
これでは僕みたいな人間は使い物にならないからすぐにリストラをされてしまうということだったりするのだろうな。
これはこれで手厳しい。
空海は空海で、自分があまりにもできすぎるからまったく仕事ができない人間の哀しみなどというものに同情してくれそうにない。
どちらにしても天才のもとに仕えるのは大変なようだ。凡人は地べたを這いつくばって生きるしかない・・。
即身成仏というと、最近よく聞く、“3密”というのは密教の用語だそうだ。その3つとは、身密,口密,意密(肉体、言葉、意識)といい、人間の生命を構成するものと定義されている。誰でも持っているその三密は大日如来とつながっており、そのつながりを認識することで即身成仏、すなわち、生きながらにして仏になることができるというのが密教の基本的考えだ。身、口、意には大日如来と一体になれる秘密が隠されている。だから三密なのだ。
それを誰がコロナ対策に転用したのかしらないが、お大師様も困っているに違いない。
そして、普通の仏教(顕教)では、その身、口、意は欲望の元であるからそれらから逃れるために諦観という境地になるまで修行をしなければならないとしているのだが、密教の考えは、その、“逃れたい”と思う心自体が欲望であるのだからそれさえも超越した、“空”の心が必要でそれを得るためにはすべての欲望を肯定するべきだということになる。
まったく斬新すぎる考えに恐れ入ってしまう。そしてそれが発展してくると、親鸞の肉食妻帯もかまわないということになるらしい。
話は全く変わるが高野山では、今年の10月16日からいろいろな場所の拝観料が値上げされるらしい。
霊宝館は600円が一気に1300円になるらしい。金剛峯寺も1000円になる。駐車場の有料化は回避されたようだが、この値上げはきつい。奈良や京都の施設の料金と比較した結果ということだが、もう、生涯霊宝館には行けなくなってしまう。
金剛峯寺では投資ファンドにお金をつぎ込んで失敗したというようなニュースがあったし、高野町もふるさと納税で派手にやりすぎて対象から外されていた。みんなそこまであくせくしてお金儲けをしなくてもいいだろう。空海は京都の廃頽した仏教から距離を置くために高野山にこもったのではなかったのか。その廃頽した世界をまねる必要はなかろうと思うのだ。いくら欲望を全開にしてもいいからという教えでも聖地にお金の臭いは似合わないのだ。