ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

静かな海の中に居続けたい

2014-01-16 18:10:25 | 日記
20代から30代の頃、人の死期がわかった時期があった。

何も考えずに目を通していた新聞のお悔やみ欄に、突然そこには書かれていない知人の名前が見えてくる。

何気なく見かけた別の知人に対して「もうあまり時間が残されていない」との言葉が無意識に浮かんでくることがあった。

また50代で亡くなった母の時は、リアルな映像として何度も死期が迫っているとの知らせを受け取った。

その時はまさか亡くなるなんて、本人はもちろんのこと、周囲の誰もが信じられないことだったと思うが、悲しいかな一年を待たずに現実となっていった。

50代前半の若さで亡くなった母を始め、私が分かったのは、みんな寿命と言うには若すぎる方ばかりで、病院に行った時にはすでに手遅れという状態だった。

なぜ、こんなことがわかってしまうのか?

まさか直接、本人にそんなことを言うわけにはいかないし、他の誰にも言うわけにはいかない。

これは単なる思い過ごしだと自分に言い聞かせて、見なかったことにしようとしたが、それがやがて現実になり・・・

特に母の時には、なぜ私が分かった時に、すぐに病院に行くように勧めなかったのかと、とても自分を責めた。

しかし、私が分かった時には、もう亡くなる事が決まっていたのだ。

だから、何をしても無駄だったのだ。

ずっとそう思ってきた。

でも、もしもそうだとしたら、事前にそんなことが分かっても何の意味もない。

それが現実になっても、嬉しいどころか悲しすぎる。

こんなことは知らなくてもいいと思った。

しかし、そんなことも40代に入ってからは次第に無くなっていき、今は誰の死期も分からなくなった。

ところで、最近よく思うのは、人の死ぬ時期は変えることができるのではないかということ。

特に癌などの場合、心の持ち方を変えれば治るのではないかと思う。

母は癌が分かる前、大きな悩みを抱えていた。

それは母の実家のことだったが、実家から電話がある度に、母の機嫌が悪くなり、深いため息をついていた。

私も時々、母からそれについての話を聞かされたが、若かった私は母の相談相手になれるほど大人ではなく、いつも聞き流していたように思う。

ずっと悩んだり心配をすること、それから怒りは、自分自身を傷つける行為だと、あの頃に分かっていて、それを母に伝えることができていたら、もしかしたら母の寿命はすこし伸びていたのではないだろうか。

しかし、エラそうなことを書いている私も、心配する気持ちや悩む気持ち、時には怒りが大きくなりそうな時がある。

そんな時は胸が重苦しくなり、まさに自分を傷つけているという感覚になる。

自分自身を傷つけるようなことをしてはいけない。

そう思いなおして、何度も何度も感謝の言葉を心の中でつぶやく。

すると時間はかかっても、必ずまた平常心を取り戻すことができる。

強風と荒れ狂う波の海から、また静かで穏やかな海に戻ってきたような気持ちになる。

感謝をすること。不平不満を言わない、考えないこと。

そんなことはきれいごとだと思う人もいるかもしれないが、こんなことが、もしかしたら決まっていた死期さえも変えることになるのではないだろうかと思ったりする。













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