我が家の裏に広がる森林は、リビングの窓から見ると東南になるため、太陽が東から昇り、そして時間の経過とともに森林の上を移動していくのが見える。
毎朝リビングの窓から、森林と太陽に向かう形で祈りをささげている。
太陽と大自然、つまり天と地に感謝をし、自分の身体の中にその両方から流れ込んでくる光のエネルギーを頂く。
それはもう何年も続けていることなのだが、実はここ最近そのエネルギーが変わったと感じていた。
それまでは地から流れてくるエネルギーが強かったのだが、先月くらいから天から流れてくるエネルギーが強くなった。
これは私の感覚なので、あまり意味はないことかもしれないが、毎日毎日続けていることなので、微妙なエネルギーの流れの違いというのを感じる。
そして、天からのエネルギーが強くなったからなのかはわからないが、私は「伊勢神宮」に行きたくて仕方がない。
伊勢神宮はまだ行ったことがなく、いつか行きたいとは思っているのだが、これほど行きたいという気持ちになったのは初めてのことかもしれない。
ただ残念ながら、今のところ行く予定はない。
だから、今朝は氏神さまである神社へお参りに行くことにした。
こちらの神社の御祭神は「天照大神」で、神社に一歩足を踏み入れるとその雰囲気は非常に柔らかく、どこか女性的な印象のする神社なのだが、いつもきれいに掃き清められていて清々しい。
朝早く参拝者がまだ誰もいない境内には、美しく紅葉した木々の間をたくさんの小鳥たちが飛び回っていた。
本殿へ向かう為に階段を上ろうとした時、本殿の軒先から二羽の雀がちょこんと顔を覗かせているのが目に入った。
可愛らしい顔をふたつ並べて、じっとこちらを見ている。
あまりにも可愛いので、柏手を打って驚かせてしまうのではないかと心配になり、すこし控えめに手を打った。
そして生かされている事への感謝を捧げ、顔を上げるといつの間にか雀たちはいなくなっていたが、胸の中は喜びでいっぱいになっていた。
神社から帰る道も心はずっと弾んでいて、神社というものがある国に生まれたことに感謝したくてたまらなくなった。
どこの町にもある神社で神様と、そして自分の心と向かい合えるとはなんと素晴らしいことなのか。
以前、アメリカから来たお客様をとある神社へ案内したことがあり、その時に「神社にはなんという神様がいるのか」と質問されたことがある。
その時は、日本には八百万の神がいて、神社によって祀られている神様がいろいろといらっしゃるのだということを説明したのだが、唯一絶対の神キリストを信仰し、週末には欠かさず教会へ通うと言うアメリカ人の方は「理解できない」という顔をされていた。
今ならもう少しわかりやすく説明ができただろうか・・・
いやいや、やっぱり無理かなぁ。
このブログに書いていることも、けっして人前では話すことはできない。
「光のエネルギー?なに言ってんだべ」←(いきなり訛る)
そう言われるのがオチだと思う。
やはり自分の中だけでそう思っていればいいのだろう。
ただ、こうしてブログと言うものに書くことは、「自分はこの時こう感じていたのか」と思い出し、またその時の感情を再び呼び起こすことができていい。
よい感情はもう一度嬉しさを味わうことができ、怒りや悲しみの感情は時間の経過があることで第三者の視線で反省したり見つめなおしたりすることができる。
ほとんど独り言であり、ごくごく少ない方にしか読まれていないブログですが、こうして読んで頂いていることに感謝申し上げます。
毎朝リビングの窓から、森林と太陽に向かう形で祈りをささげている。
太陽と大自然、つまり天と地に感謝をし、自分の身体の中にその両方から流れ込んでくる光のエネルギーを頂く。
それはもう何年も続けていることなのだが、実はここ最近そのエネルギーが変わったと感じていた。
それまでは地から流れてくるエネルギーが強かったのだが、先月くらいから天から流れてくるエネルギーが強くなった。
これは私の感覚なので、あまり意味はないことかもしれないが、毎日毎日続けていることなので、微妙なエネルギーの流れの違いというのを感じる。
そして、天からのエネルギーが強くなったからなのかはわからないが、私は「伊勢神宮」に行きたくて仕方がない。
伊勢神宮はまだ行ったことがなく、いつか行きたいとは思っているのだが、これほど行きたいという気持ちになったのは初めてのことかもしれない。
ただ残念ながら、今のところ行く予定はない。
だから、今朝は氏神さまである神社へお参りに行くことにした。
こちらの神社の御祭神は「天照大神」で、神社に一歩足を踏み入れるとその雰囲気は非常に柔らかく、どこか女性的な印象のする神社なのだが、いつもきれいに掃き清められていて清々しい。
朝早く参拝者がまだ誰もいない境内には、美しく紅葉した木々の間をたくさんの小鳥たちが飛び回っていた。
本殿へ向かう為に階段を上ろうとした時、本殿の軒先から二羽の雀がちょこんと顔を覗かせているのが目に入った。
可愛らしい顔をふたつ並べて、じっとこちらを見ている。
あまりにも可愛いので、柏手を打って驚かせてしまうのではないかと心配になり、すこし控えめに手を打った。
そして生かされている事への感謝を捧げ、顔を上げるといつの間にか雀たちはいなくなっていたが、胸の中は喜びでいっぱいになっていた。
神社から帰る道も心はずっと弾んでいて、神社というものがある国に生まれたことに感謝したくてたまらなくなった。
どこの町にもある神社で神様と、そして自分の心と向かい合えるとはなんと素晴らしいことなのか。
以前、アメリカから来たお客様をとある神社へ案内したことがあり、その時に「神社にはなんという神様がいるのか」と質問されたことがある。
その時は、日本には八百万の神がいて、神社によって祀られている神様がいろいろといらっしゃるのだということを説明したのだが、唯一絶対の神キリストを信仰し、週末には欠かさず教会へ通うと言うアメリカ人の方は「理解できない」という顔をされていた。
今ならもう少しわかりやすく説明ができただろうか・・・
いやいや、やっぱり無理かなぁ。
このブログに書いていることも、けっして人前では話すことはできない。
「光のエネルギー?なに言ってんだべ」←(いきなり訛る)
そう言われるのがオチだと思う。
やはり自分の中だけでそう思っていればいいのだろう。
ただ、こうしてブログと言うものに書くことは、「自分はこの時こう感じていたのか」と思い出し、またその時の感情を再び呼び起こすことができていい。
よい感情はもう一度嬉しさを味わうことができ、怒りや悲しみの感情は時間の経過があることで第三者の視線で反省したり見つめなおしたりすることができる。
ほとんど独り言であり、ごくごく少ない方にしか読まれていないブログですが、こうして読んで頂いていることに感謝申し上げます。