「ああ、バカくさい」
余命三ヶ月の母が、病院のベッドの上で呟いた言葉だ。
母が亡くなってから、三十年以上経ってもなぜか時々思い出される。
この短い言葉に、母が言わんとしていた言葉を付け加えるなら、それは「貧乏に耐え、三人の子を育て必死に生きてきて、今やっと少し余裕ある暮らしができるようになって、これから楽しもうと思ったのに死んでしまうなんて。ああ、バカくさい」だったと思う。
私が働くようになって、それまでずっと働いてきた母は、やっと仕事を辞めた。
そして、やりたかった絵画教室(市でやっていた安く習える教室)に通うようになり、父と二人で二度目の海外旅行(一度目は、私が連れて行った)にも行き、これからもっと楽しもうと思っていた矢先に病気が発覚した。
母はまだ52歳と若かったので、やりたいことはたくさんあったのだろうと思う。
そして、この母の言葉を時々思い出しながら、二十代だった私も母の歳を超えて六十代になってしまった。
二十代からつい最近までは、この言葉を思い出すたびに、これから楽しもうとしていたのに死ななけれならなかった母がかわいそうで仕方がなかった。
だからせめて自分は習いたいこと、やりたいことは事情が許せば迷わずやろう、行きたい所も事情が許せば迷わず行こうと思っていた。
それができる時もあれば、もちろんできないこともたくさんあった。
でももし今、母と同じような状況に置かれたとしても「ああ、バカくさい」と思うことは無いと断言できる。
やりたいことも、行きたいところに行くことも十分できたから?
いや、そうではない。
やりたかったことができたこと、行きたかった場所へ行けたなどということは、実は自分の中ではそれほど重要なことではなかった。
もちろん自分がやりたいことを、他人の迷惑にならない限りできるのは良いことだが、たとえ希望が叶わなくても、これまでの人生がバカくさかったとは、今なら決して思わない。
六十年余りの長い人生で、ひとり涙を流したつらい思い出も、怒りに震えた思い出も、何気ない日常生活の楽しかったことや嬉しかったことも、みんな意味のあることだったと思える。
むしろ私にとっては、そちらの方がずっと得ることが多かったように思う。
楽しむというのは、何かをしなければいけないものでは無く、何処かへ行かなければできないものでも無い。
日々、生きている生活の中で感じるものなのだと思う。
そして今がつらくても、それを誰かのせいにして憎しみを持たなければ、いつか必ず自分に必要な出来事だったと思える日がくると思うようになるだろうと思う。
なんて、そのように考えが変わってきたということは、歳をとったということかもしれない、、、