今、桜が満開の時期を迎えている。
家の窓からは、森林の中に咲く山桜が見える。
山桜は、新緑がまばらで茶色っぽく見える森林の中では、格別の華やかさがあって心が躍る。
この時期は、少しでもたくさんの桜を見ておきたいと思う。
だから暇さえ有れば窓から山桜を眺め、出かければスーパーや個人のお宅にある桜を眺め、さらにそれだけに飽き足らず、わざわざ遠回りをして桜並木のある場所まで行って眺めている。
というわけで、北海道神宮の桜も見に行ってきた。
満開の桜と、もう一つ、満開になっている梅の花が見事だった。
ところで北海道神宮は桜の名所として地元では有名なのだが、これらの桜を最初に植えたのは誰だったのか、またなぜ桜を植えたのかということはまったく知らなかった。
ある日、新聞を読んでいたら知りたかったことが載っていた。
それによると、北海道神宮に桜が植えられた背景には悲しい物語があったこと、また長い歴史の中で、様々な人たちの思いが込められていることを初めて知った。
ところで、札幌の基礎を作ったのが島義勇(島判官)というのは、札幌市民なら知っている?かもしれない。
また島義勇(しまよしたけ)のことは知らなくても、北海道神宮内の六花亭で売られているお菓子「判官さま」を食べたことがある人は多いかもしれない。(判官さまは中にあんこの入ったお饅頭で、店頭で焼いてくれる熱々が美味しい)
なぜ「判官さま」と名づけられたお菓子が、神宮限定で売られているのかというと、実は島義勇が北海道神宮の建立に大きく関わっていたから。
島義勇とは、石狩平野を碁盤の目状に区画することを構想し、現在の札幌市の基礎を作ったことから「北海道開拓の父」とも呼ばれている。
もともと佐賀藩士だった島義勇は、1856年、当時、未開拓地だった蝦夷地を厳しい寒さの中で二年間歩き続け、詳しい調査をした。
その功績が認められて、開拓使判官となり、後に明治天皇より国土の神である大国魂命など「開拓三神」を祭ることを命じられた。
どこに開拓三神を祭るか考えていた島義勇は、札幌を都市化するための構想を練った円山の丘が、開拓三神を祭るのにふさわしいと、神社予定地にした場所が、現在の北海道神宮がある場所だそうだ。
ところが、島義勇は予算を巡る上司との衝突によって、札幌に来てわずか三ヶ月で罷免され、札幌を去ることになってしまう。
さらに佐賀へ戻った島義勇は、1874年に勃発した佐賀の乱の首謀者として、斬首の上さらし首という武士として無念の最期を迎えた。
島義勇が北海道へ渡った時に従者だった福玉仙吉は、現在の札幌の地で、この知らせを受けて非常に悲しみ、かつての主君を慰霊しようと、手稲の山々を歩き桜の木を集め、エゾヤマザクラを150本札幌神社(現在の北海道神宮)に献木したそうだ。
この時に植えられた桜が、のちに北海道神宮が桜の名所になった由来になり、その後も色々な人たちの植樹により現在のような桜の名所になったそうだ。
島義勇は、故郷、佐賀での最期は無念なものになってしまったが、札幌では「判官さま」として、今でも尊敬され語り継がれているというのは不思議なものだと思う。
お花見のあと、島判官さまを偲びながら、熱々の判官さまを頂いてきた。