私が結婚するまでずっと暮らしていた実家には神棚と仏壇が置かれていた。
これは祖父母の代からのものだったが、祖父母が亡くなってから、仏壇に手を合わせるのはお盆とお正月、そして祖父母の命日くらいなのもで、神棚に至っては年末年始の二日間しかお参りをしていなかったと思う。
だから実家の仏壇も神棚も、いくら内装に金箔を使って豪華にしていたとしても、生き生きとしたものがまったくなくて、昔からまるでどこかの空き家のように見えていた。
それは父が亡くなって空き家となってしまった実家と同じで、今でも実家の仏壇と神棚は、そして実家までも生き生きとした光がない。
もともと両親は宗教的なものに対しては興味がなかったのだが、新興宗教に入っている知り合いからよく誘いの電話があったりしていたので、そんなことからますます宗教が嫌いになっていた。
ただ先祖に対しては供養しなければという気持ちはあったようだが、それでも供養と言えるようなことはあまりせず、母はふざけて「ウチの仏さまは、ほっとけさまだから」などとよく言っていた。
私も新興宗教はもちろん宗教は好きではない。
でも先祖供養や床供養をやっているではないかと言われそうだが、私が嫌いな宗教とは団体になって布教活動をしたり集金活動をしたりしているもののこと。
そもそも入った目的が、自分の願望を叶える為という信者が多い所。
団体を大きくすることだけに一生懸命になっている所。
このような所にいては、本来の目的だったはずの自分の中の光を見つけることは不可能だろうなぁと思う。
(もしかしたら、そのような場にいても見つける人はいらっしゃるのかもしれませんが・・・)
なぜここまで嫌いな所をあげられるかと言うと、私も恥ずかしながらそのような団体に足を踏み入れたことがあるからで、ここでの経験があったからこそ、個人で行う先祖供養を初めて自分でやった時、不覚にも涙がこぼれてしまった。
あの時は、(今もですが)探していたのはこれだったと心から思えた。
これは誰に強制されて行うものでもなく、けっして団体にはならず、ただただ感謝のみを捧げる個人だけで行う供養。
自分が感謝したいと思うから感謝するだけであり、やめようが休もうが誰もにも怒られたりしない。
ただ、自分の本当の心が自分自身を見ているだけ・・・
これを始めてから、自分の内面を見ることがとても多くなり、感謝することで、私の頑強だった自我がすこし緩んできたのではないかと思える。
先祖供養をやる気になれない人は無理にやらなくてもいい。やりたいと思えた人だけがやればいいと思う。
だってやらなくても、(うちの両親のように)生きて行けるのだから。
ただ私自身はやり続けて本当に良かったと思っている。
自分の中にある心と外側の自分とでも言ったらいいのか、その二つの自分が最近一致してきたと思う。
バラバラだった以前の自分は生きるのが苦しいと思う時がよくあった。
今は一致していることがほとんどなので、生きることがとても楽であり楽しい。
・・・あれ、最初に書こうとしていたことと、話題がずいぶんかけ離れてしまったかもしれない。
この続きは書けたらまた次回にします。
これは祖父母の代からのものだったが、祖父母が亡くなってから、仏壇に手を合わせるのはお盆とお正月、そして祖父母の命日くらいなのもで、神棚に至っては年末年始の二日間しかお参りをしていなかったと思う。
だから実家の仏壇も神棚も、いくら内装に金箔を使って豪華にしていたとしても、生き生きとしたものがまったくなくて、昔からまるでどこかの空き家のように見えていた。
それは父が亡くなって空き家となってしまった実家と同じで、今でも実家の仏壇と神棚は、そして実家までも生き生きとした光がない。
もともと両親は宗教的なものに対しては興味がなかったのだが、新興宗教に入っている知り合いからよく誘いの電話があったりしていたので、そんなことからますます宗教が嫌いになっていた。
ただ先祖に対しては供養しなければという気持ちはあったようだが、それでも供養と言えるようなことはあまりせず、母はふざけて「ウチの仏さまは、ほっとけさまだから」などとよく言っていた。
私も新興宗教はもちろん宗教は好きではない。
でも先祖供養や床供養をやっているではないかと言われそうだが、私が嫌いな宗教とは団体になって布教活動をしたり集金活動をしたりしているもののこと。
そもそも入った目的が、自分の願望を叶える為という信者が多い所。
団体を大きくすることだけに一生懸命になっている所。
このような所にいては、本来の目的だったはずの自分の中の光を見つけることは不可能だろうなぁと思う。
(もしかしたら、そのような場にいても見つける人はいらっしゃるのかもしれませんが・・・)
なぜここまで嫌いな所をあげられるかと言うと、私も恥ずかしながらそのような団体に足を踏み入れたことがあるからで、ここでの経験があったからこそ、個人で行う先祖供養を初めて自分でやった時、不覚にも涙がこぼれてしまった。
あの時は、(今もですが)探していたのはこれだったと心から思えた。
これは誰に強制されて行うものでもなく、けっして団体にはならず、ただただ感謝のみを捧げる個人だけで行う供養。
自分が感謝したいと思うから感謝するだけであり、やめようが休もうが誰もにも怒られたりしない。
ただ、自分の本当の心が自分自身を見ているだけ・・・
これを始めてから、自分の内面を見ることがとても多くなり、感謝することで、私の頑強だった自我がすこし緩んできたのではないかと思える。
先祖供養をやる気になれない人は無理にやらなくてもいい。やりたいと思えた人だけがやればいいと思う。
だってやらなくても、(うちの両親のように)生きて行けるのだから。
ただ私自身はやり続けて本当に良かったと思っている。
自分の中にある心と外側の自分とでも言ったらいいのか、その二つの自分が最近一致してきたと思う。
バラバラだった以前の自分は生きるのが苦しいと思う時がよくあった。
今は一致していることがほとんどなので、生きることがとても楽であり楽しい。
・・・あれ、最初に書こうとしていたことと、話題がずいぶんかけ離れてしまったかもしれない。
この続きは書けたらまた次回にします。