乾いた風のここちよい五月の晴天。五月晴れ。夏日。
やはり、五月は美しい。
エメラルドの風。
先週、ニセアカシア(針槐・はりえんじゅ)の淡いクリーム色の花が満開だったけれど、6日間の断水で、花を見るゆとりがなくて、気が付いてみれば、拙宅入り口の大きなニセアカシアの木の下に、カラカラに乾いて枯れた花房や花びらが落ちていた。
五月の初夏の頃は、木に咲く花を見ることが多いけれど、ニセアカシアは、よくみないと花がついているのがわからない。
藤のような花房が、風に煽られ、パラパラと落ちてくるのを、木の下で、眺めていたのは、子供の頃(子供の頃といっても、この家に越してきたのが、中学生になった頃だった)。
それ程、好きな花ではなかったけれども、一番好きな五月に咲く花だったから、毎年、飽きもせず、眺めていた。
ニセアカシア・・・。
家の敷地にあったから。意識せず、好みもしないのに、ソコにあったのが・・・ニセアカシアだった・・・(のかもしれない)。
ニセアカシアの木の下を、強い初夏の日差しの中、歩いて帰ってきた母も、もう居ないこの家。
母は、(たぶん)散った花の上を歩いていても、ニセアカシアの木の下を歩いていたなんて、気づきもしなかっただろう。
母は、この家で死にたいと言って、望みを果たした。
母は、父が嫌いだったから、父が生きている時は、この家は嫌いだった(のだと思う)。
父が亡くなってからは、庭の手入れや、家庭菜園などをして日を送った・・・。父が居たときには、手伝おうともしなかったのに・・・。
父が居なくなって、この家の主人となった母は・・・たぶん、この家を少し好きになったのかもしれない。
そして、晩年には、この家で死にたい・・・と望んで、でも、望みは叶わないだろう・・・なんて、書き綴っていたけれど、最後は、この家で、死んだ。
望みは果たしたけれど、結局のところ、病院や介護施設では、死にたくない・・・ってコトだったから、病院や介護施設以外、そして特に、この家でなくても、他に死に場所があれば、よかったのかもしれないのだけれど・・・。
たぶん、自分が、死んだなんて、気が付かないうちに逝ってしまったんだね。
・・・また母の話になってしまった。
母から分離できるのは、いつのことになるのだろうか?
今朝も、母の夢を見た。夢の内容は、思い出せないけれど、母が出てきたのは覚えて?いるような気がした。
或いは・・・母の夢を見たような気がしただけだったのか・・・。