お昼に津市まで鰻ツアーを敢行し、夜は名張川納涼花火大会をバイク飛ばして「ひとり見物」する予定が、なぜかお昼寝をしてしまい、お茶の間桟敷で夕ご飯をいただきながら、見事なナイヤガラに見入る。
毎年、脇坂火薬さんが手掛けられる素晴らしい花火に、逝かれた病友の鎮魂といま果敢に抗がん闘病中の病友がたの安寧をねがい、粛然と見入るひととき。
心に豊饒の氣がそよぐ。
かつては、伊勢参りの宿場町として栄え、今は大阪のベッドタウンとして発展を続ける我が街・名張の2022花火大会は、今夕8時から9時までに約5000発が打ち上げられるとの事前情報であったが、途中9時から約30分に及ぶ火事騒ぎがあり、終わったのは午後9時半過ぎであった。
市史によれば、1930(昭和5)年、参宮急行電鉄(参急電=現・近鉄大阪線)の開通を記念して始められたと伝えられる。
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まことに私事ながら、私の父はかつての参急電の親会社・大阪電氣軌道(大軌)の下請け会社として環境開発に携わり、のちに参急電が大阪~伊勢・宇治山田に架線を延ばすに従い住居を移し、最終的に松阪に移り住み、やがて関西電力の下請け・孫請け会社として、黒部川の電源開発(くろよんダムの工事を父はそのように説明してくれた)に数年に亘って従事し、自宅には2~3か月に1度帰宅する程度で、数日後には、ともに戻った人夫さん達をトラックの荷台に乗せ、大勢で黒部に戻って行かれた。
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まことに私事ながら、私の父はかつての参急電の親会社・大阪電氣軌道(大軌)の下請け会社として環境開発に携わり、のちに参急電が大阪~伊勢・宇治山田に架線を延ばすに従い住居を移し、最終的に松阪に移り住み、やがて関西電力の下請け・孫請け会社として、黒部川の電源開発(くろよんダムの工事を父はそのように説明してくれた)に数年に亘って従事し、自宅には2~3か月に1度帰宅する程度で、数日後には、ともに戻った人夫さん達をトラックの荷台に乗せ、大勢で黒部に戻って行かれた。
その参急電開通記念の花火大会が、今年80回を迎えたと知って、転感懐にふける夜である。
終わり近くに金、銀の大きなスターマインが上がり、やがてしだれ柳のように川面に落ち行くさまに、2005(平成17)年に、熊野大花火に協賛させていただき、230発余の花火を打ち上げ、最後が大きな大きなしだれ柳であったことを想い出している。
金つなぎの会創設10周年記念事業【金つなぎ 逝者鎮魂・生者安寧 祈念の海花火】は、皆々さまのご厚志約250万円を預かって、脇坂火薬さんに見事に打ち上げていただいた。
皆さまのお力で成し遂げたあの壮挙を、今も嬉しく有難く、懐かしく思い返す。
ご縁をいただいた故脇坂高久・脇坂火薬社長,、ありがとうございました。
熊野市の河上敢二市長はじめ市の仮谷係長(当時)や奥田博典観光協会会長(当時)、 故速水利純さん・高さん夫妻、ほかにもたくさん。
打ち上げのため、ご一緒に、度々熊野に足を運んでくださった病友がた、故中島理事、故小津さんと彼氏さん、林口さん、玉ちゃん、若旦那、義妹の美代ちゃん、それからそれから。
皆々さま、ほんとうにありがとうございました。
がんを病む人生って、思えば波乱万丈なのですね。
有難いです。(きっぱり!)
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