先日、団塊世代が話題の種にされた。どうしてそうなったかというと、最近の若いお父さんやお母さんは誠に自分勝手ではないだろうか、という発言からだ。
小学校の運動会などの行事がある時、運動場には入らないでくださいとアナウンスがあるのに、これを無視してわが子の写真やビデオ撮影をする。近所の公園の草取りも、「うちの子どもは使わないから」と参加しない。子供会の行事は、習い事があるとかクラブスポーツがあるとか、で参加しない。地域の行事になぜ自分たちが犠牲を払ってまで参加しなくてはならないのかというわけだ。それだけではない。子供会の役員は負担が多すぎるので引き受けない。引き受け手がいないのなら子供会を解散すればいいと、子ども会を解散した地域もいくつかある。
この原因を作ったのはこの若いお父さんやお母さんを育てた団塊世代にあるというのだ。若いお父さんやお母さんの両親といえば、今の50代後半から60代の人たち、つまり団塊世代というわけである。私自身は団塊世代の走りだが、こうしたお父さんやお母さんの論理に反論できない。むしろ同調的だ。それはそれで仕方ないのではないかと思っているからだ。もちろん全面的に彼らを支持するつもりは無い。もう少しマナーを守って欲しいといつも思う。マナーはみんなが気持ちよく暮らすためのルールだ。これは価値観というよりも方便と思ってもらっていい。
私たち、戦後に育ってきた人間は、全体よりも個人を大切にしてきた。「右向け右」と号令をかけられ、全員が同じ行動をとるのは運動会だけでよいと考えてきた。もちろん全員がそうだとは言わない。いつの時代だって多少はちょっと違っている人たちはいるのが正しい人間の世界なのだから。「右向け右」と全員が同じ方向を向いていることの方が安心できるという人たちの方が数は多いであろう。人間が「類的存在」という意味は、みんなが同じ方向を向いているということなのかもしれない。
私たちが全体よりも個人を大切にしてきたことが、結果的には他の人のことを「思いやれない」人間を作り上げてきた。本当は、個人を大切にするということは、同じ個人である他の人も大切にすることなのに、残念ながらそこまで至らなかった。それはきっと、私たちが子どもたちに言ってきたことや子どもたちのためにやってきたことが、子どもたちにはまず自分という点だけに留まってしまったのだろう。
私は子どもに「勉強などしなくていい」と言ってきた。今年、孫娘が中学に入って初めて受けたテストについてどうだったのかと話していた時、孫娘の母親である長女が「私の時はテストの結果なんか全く興味を示さなかった。私の成績を見たことも無い」と言う。確かに子どもたちの通知表を私は見た記憶が無い。長女は「放って置かれた」と言うが、ニュアンスはちょっと違う。勉強を強制するつもりは無い、つまりは自分がするんだよと言いたかったのだが、どうもうまく伝えられなかったと20数年も経た今、気がつくようなダメな父親である。
小学校の運動会などの行事がある時、運動場には入らないでくださいとアナウンスがあるのに、これを無視してわが子の写真やビデオ撮影をする。近所の公園の草取りも、「うちの子どもは使わないから」と参加しない。子供会の行事は、習い事があるとかクラブスポーツがあるとか、で参加しない。地域の行事になぜ自分たちが犠牲を払ってまで参加しなくてはならないのかというわけだ。それだけではない。子供会の役員は負担が多すぎるので引き受けない。引き受け手がいないのなら子供会を解散すればいいと、子ども会を解散した地域もいくつかある。
この原因を作ったのはこの若いお父さんやお母さんを育てた団塊世代にあるというのだ。若いお父さんやお母さんの両親といえば、今の50代後半から60代の人たち、つまり団塊世代というわけである。私自身は団塊世代の走りだが、こうしたお父さんやお母さんの論理に反論できない。むしろ同調的だ。それはそれで仕方ないのではないかと思っているからだ。もちろん全面的に彼らを支持するつもりは無い。もう少しマナーを守って欲しいといつも思う。マナーはみんなが気持ちよく暮らすためのルールだ。これは価値観というよりも方便と思ってもらっていい。
私たち、戦後に育ってきた人間は、全体よりも個人を大切にしてきた。「右向け右」と号令をかけられ、全員が同じ行動をとるのは運動会だけでよいと考えてきた。もちろん全員がそうだとは言わない。いつの時代だって多少はちょっと違っている人たちはいるのが正しい人間の世界なのだから。「右向け右」と全員が同じ方向を向いていることの方が安心できるという人たちの方が数は多いであろう。人間が「類的存在」という意味は、みんなが同じ方向を向いているということなのかもしれない。
私たちが全体よりも個人を大切にしてきたことが、結果的には他の人のことを「思いやれない」人間を作り上げてきた。本当は、個人を大切にするということは、同じ個人である他の人も大切にすることなのに、残念ながらそこまで至らなかった。それはきっと、私たちが子どもたちに言ってきたことや子どもたちのためにやってきたことが、子どもたちにはまず自分という点だけに留まってしまったのだろう。
私は子どもに「勉強などしなくていい」と言ってきた。今年、孫娘が中学に入って初めて受けたテストについてどうだったのかと話していた時、孫娘の母親である長女が「私の時はテストの結果なんか全く興味を示さなかった。私の成績を見たことも無い」と言う。確かに子どもたちの通知表を私は見た記憶が無い。長女は「放って置かれた」と言うが、ニュアンスはちょっと違う。勉強を強制するつもりは無い、つまりは自分がするんだよと言いたかったのだが、どうもうまく伝えられなかったと20数年も経た今、気がつくようなダメな父親である。