気のおけない友人家族らで、岐阜県可児市の花フェスタへバラを見に行って来た。カミさんは花フェスタの年間使用のパスポートを手にしているから、バラが見事なこの時期にぜひ皆さんで出かけてみたいとお誘いした。今日は平日でありながら、人では実に多かった。バラが見事に咲き誇り、帰りには温泉に入って食事も楽しみ、素晴らしいとしか言いようのない一日だった。
私がバラに魅せられたのは小学生の時だ。小学校2年生の時に、家を移ったので学区以外から学校に通うことになった。私は、気も向くままに帰り道を変え、本屋に立ち寄ったり、三味線を聴きに芸者さんらが住む界隈を歩いたり、酒蔵が並ぶ人の通らない道を行ったり、駅まで行くにはどう行けばよいのかと歩いたりした。そんな私が気に入った道の一つに、庭にたくさんのバラが咲いている家があった。外科医の庭で、外からも庭が見えるようになっていた。会社の重役の家と言われるに庭にもバラが咲いていたが、規模ではこの外科医の庭が一番だった。
中学生か高校生になって、私の市にも「バラ愛好会」というような組織があることを知った。メンバーは市の有力者が名前を連ねていたように記憶している。私は、日本的なものを排除したいと言う気持ちと西洋的なものへの憧れから、バラに魅せられた。我が家の裏にあった土地に自分の小遣いでバラの苗木を買い、ここを「秘密の園」にしようと考えた。一人で土を耕し、買い求めたバラの苗木を植え付け、道を作り、庭園造りに燃えていた。しかし、80坪か90坪はあった、もしかするとそれ以上にあったかもしれない土地を、中学生が一人でバラ園を造るということは無謀な計画だった。どんなに働いてもすぐに雑草が生え、お金も無かったからバラの苗木も増えなかった。
いつしか、「バラ愛好会」の若きメンバーになることは諦めた。バラは手の届かない存在となった。高校生になって、好きだった女の子が初恋の人だと思うようになった。彼女をバラに喩えた詩を書いたのも、バラへの思いがあったからかだろう。さて、どんな詩だったのか。彼女のことを、宵待ち草に喩えて書いた小説もあるが、あの文芸部の機関誌はどこにあるのだろうか。「バラ愛好会」のメンバーになれなかったように、初恋の人も私には高い存在に思えてならなかった。それは多分、材木屋であった我が家が破産していくことにかかわっていたのだと思う。人は生きていく過程でいろんな「負」を持つ。それは知らず知らずのうちにエネルギーに変るが、初めからこれがお前の「負」と突きつけられたなら、生きていくことそのものを呪うだろう。
私がバラに魅せられたのは小学生の時だ。小学校2年生の時に、家を移ったので学区以外から学校に通うことになった。私は、気も向くままに帰り道を変え、本屋に立ち寄ったり、三味線を聴きに芸者さんらが住む界隈を歩いたり、酒蔵が並ぶ人の通らない道を行ったり、駅まで行くにはどう行けばよいのかと歩いたりした。そんな私が気に入った道の一つに、庭にたくさんのバラが咲いている家があった。外科医の庭で、外からも庭が見えるようになっていた。会社の重役の家と言われるに庭にもバラが咲いていたが、規模ではこの外科医の庭が一番だった。
中学生か高校生になって、私の市にも「バラ愛好会」というような組織があることを知った。メンバーは市の有力者が名前を連ねていたように記憶している。私は、日本的なものを排除したいと言う気持ちと西洋的なものへの憧れから、バラに魅せられた。我が家の裏にあった土地に自分の小遣いでバラの苗木を買い、ここを「秘密の園」にしようと考えた。一人で土を耕し、買い求めたバラの苗木を植え付け、道を作り、庭園造りに燃えていた。しかし、80坪か90坪はあった、もしかするとそれ以上にあったかもしれない土地を、中学生が一人でバラ園を造るということは無謀な計画だった。どんなに働いてもすぐに雑草が生え、お金も無かったからバラの苗木も増えなかった。
いつしか、「バラ愛好会」の若きメンバーになることは諦めた。バラは手の届かない存在となった。高校生になって、好きだった女の子が初恋の人だと思うようになった。彼女をバラに喩えた詩を書いたのも、バラへの思いがあったからかだろう。さて、どんな詩だったのか。彼女のことを、宵待ち草に喩えて書いた小説もあるが、あの文芸部の機関誌はどこにあるのだろうか。「バラ愛好会」のメンバーになれなかったように、初恋の人も私には高い存在に思えてならなかった。それは多分、材木屋であった我が家が破産していくことにかかわっていたのだと思う。人は生きていく過程でいろんな「負」を持つ。それは知らず知らずのうちにエネルギーに変るが、初めからこれがお前の「負」と突きつけられたなら、生きていくことそのものを呪うだろう。