「今日は何の日?」を見ていたら、阿部定事件が出てきた。大島渚監督の『愛のコリーダ』は、この事件を扱ったものだ。私が初めて大島渚監督の映画を見たのは、『日本の夜と霧』だったと思う。安保闘争を描いたものだったが、映画会社の松竹が大島氏に無断で上映を中止したことに怒って松竹を退社してしまう原因となった映画だ。今では何も覚えていないけれど、斬新な印象を受けた。
映画はヨーロッパから、それまでの勧善懲悪とかハッピーエンドではない、新しい波(ヌーベルバーク)が起こっていた。映画好きな私は、「これが映画だ」と思い、映画監督になって超リアルな映画を作ってみたいなどと思った。カメラを常に50センチの位置に固定して、覗き見るような映画を作れないかと考えていた。物語はあくまでも日常のよくあるもので、決して悪人はいないのに、幸せになれない、そんなストーリーを夢想していた。
大島渚の作品は衝撃的だった。私は日活の今村昌平監督の『豚と軍艦』や『にっぽん昆虫記』、『神々の深き欲望』に憧れていた。東京へひとりで出ることになったら、今村昌平監督の弟子になりたいと思っていた。大島渚の映画を見た時は、日本にも凄い映画を作る人がいることを改めて教えられた。大島渚の作品はは今村昌平の作品よりもストレートに権力に立ち向かうものだったけれど、どこかで似たところがあるように思った。
それが『愛のコリーダ』だった。人間の泥臭い部分へどんどん突き進んでいく点でふたりは似ていると私は思った。人間とはいったい何か、ふたりの監督はそこに注目したと思う。人間が作り出した社会の不条理を人間そのものの愛憎や欲望から解き明かそうとしたのではないか、そんな気がした。『愛のコリーダ』では、阿部定の愛と欲望を描いているが、愛と欲とは対立するものなのか、愛することは奪うことでもあるという当たり前のことを、人はなぜ認めようとしないのだろう。
明治38年生まれの阿部定は、昭和何年まで生きたのだろう。68歳までは分かっているようだけれど、ある時からふらっと出かけてしまい、その後の消息は分からないという。事件を起こしたのは、2・26事件があった年で彼女が31歳の時だ。相手の男の性器を切り取って持ち歩いていたことが猟奇事件として話題になったが、彼女は「好きな男と一緒にいたかった」だけのことだった。