コロナ鬱という言葉があるそうだが、こうして毎日家に籠っていると、鬱になったような気がしてくる。先のことを考えても仕方ないからか、過去のことをよく思い出す。西部邁氏の評伝を読んだ時、村田英雄の『人生劇場』が浮かんできた。
『人生劇場』がいつヒットしたのか知らないが、歌詞は意外に覚えている。「やると思えばどこまでやるさ それが男の魂じゃないか 義理がすたれればこの世は闇だ なまじとめるな夜の雨」。西部氏はきっとこの歌が好きだっただろう。
いや、あの頃の男は皆、「義理と人情」に憧れていた。歌詞の中に出てくる「吉良の仁吉」は愛知県西尾市吉良の人だ。江戸末期に生き、清水の次郎長とは盃を交わした仲で、その「義理」のために荒神山へ乗り込んだ。ケンカには勝ったが、仁吉は命を落とした。
男の潔さの見本のような人だ。「吉良の仁吉」の映画は観た気がするが、『人生劇場』は、歌は知っているのに物語は知らない。小説は尾崎士郎の作品だが、読んだことが無い。高校の時、西尾の出身の友だちがいて、尾崎士郎の墓だったかゆかりの場所だったかを訪ねた気がする。
友だちも尾崎と同じ早稲田大学に進学したが、何かの縁が働いたのだろうか。私たちが大学に入学した頃は、東京の大学は60年安保が終焉しその総括を巡って四分五裂していたが、愛知では何事も無いかのように静かだった。
私たちは居酒屋でビールを飲み、『同期の桜』を歌い、恋や将来に夢を描いていた。何をやるというよりも、「どこまでやるさ」が男らしいことだった。「義理」に生きることがどういうことか知らなかったし、「義理」に生きようとは思っていなかったが、「男」らしく花を咲かせたい、それが人生だと思っていた。