友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

「釈迦もびっくりの

2011年07月09日 21時44分43秒 | Weblog
 ミカンの木にアゲハチョウの幼虫を見つけたのは7月2日だった。あれから1週間が経ち、今朝見たら体長5ミリほどだったのが3センチまで大きくなっている。2日ほど前から身体の色も緑色に変わってきた。ケイタイで写真を撮ってみたけれど周りに溶け込んでわからない。これからどうなっていくのか楽しみに観察していくつもりだ。身体が緑色なのは守るための保護色なのだろうけれど、その前は2色でヘビに似た色をしているのはどうしてなのだろう。毒虫なのだよというアピールなのだろうか。

 アゲハチョウはこれからさらに大きくなり、葉を食べる音が聞こえるほどよく食べる。そして次にサナギとなり、そして蝶になっていくのだが、サナギになるところは見たことがない。だからサナギから蝶になるまでの時間はわからないが、そんなに長い時間ではないように思う。そうであるならば、なぜサナギになる必要があるのだろう。花や虫は私には理解できない不思議がある。花や蝶が美しいのも、いや私たちが美しいとなぜ感じてしまうのかも不思議である。

 今日の大和塾の市民講座は『釈迦もびっくりの日本佛教』で、講師を務めてくださったのは曹洞宗の若い住職である。私は子どもの頃、キリスト教に関心があった。今でもイエスの言葉は人生訓として最高のもののように思っている。そういう意味で、釈迦や孔子の言葉にも関心が強い。いずれも弟子たちが師の言葉を綴っているというということが共通していて面白いなと思う。講師は上智大学文学部哲学科を卒業しているから、西洋哲学しかもカトリック哲学を学んでいるわけである。そんな人がどうして僧侶の道を選んだのか知りたいと思った。

 住職は佛教がどんな風に日本に広がっていったのか、歴史を通して話していった。国や天皇を守る宗教として受け入れられ、次第に政治に力を及ぼしていったけれど、中には佛教の意味である釈迦の教えは何かを問う新しい宗派が誕生したこと、そして信長による延暦寺の焼き討ち、家康のよって政治に取り込まれていった歴史が語られた。住職はそこまでは言わなかったけれど、こうして佛教は葬式のための宗教へ堕落してしまったのだろう。住職と同じように、若い僧侶の中には釈迦の教えに戻ろうという考えがあるようだ。

 キリスト教もそうだけれど、宗教はいつも原点に戻って考えようとする時がある。そうできない宗教であればきっと亡びていくのだろう。宗教が長く生き残っていられるのはこうした改革が絶えず内部で起きるからだとも言える。住民を縛り付けるというか、管理しておくために、寺には檀家制度という戸籍が設けられた。これで寺は経営ができたし、葬式をはじめとする儀式化が進み、葬式佛教へと変わっていき、釈迦の教えは吹っ飛んでしまったとも言える。

 佛教が広がっていく時、その地域での摩擦を避けるあるいは包括するために、地域の土俗的な習慣や儀式も組み込んでいった。そうした歴史が、釈迦の教えからはみ出したり逆に深めたりして来た。親鸞の「生死は不定である」、正に最も哲学的な回答ではないだろうか。日本の佛教が到達した地点と言える。
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