『漱石俳句かるた』解説
あ あまくさのうしろにさむきいりひかな
明治三一年、小天旅行の折の作。天草の島に日が沈むのを詠んだもの。「天草」という言葉は、キリシタン禁制、天草・島原の乱などのかなしい歴史を背負っている。そうしたイメージを「天草の後ろ」に込めて、冬の「寒き入日」と取り合わせることによって、冬の一情景をみごとに表現している。季語「寒し」=冬
い いかめしきもんをはいればそばのはな
明治三二年作。「学校」の前書がある句。旧制五高の表門は赤レンガの堂々とした立派な造りである。当時はその表門から校舎のある中門のあいだには畑があった。当時九州の最高学府である赤い門と蕎麦の白い花との対比がすばらしい。季語「蕎麦の花」=秋
う うみをみてじゅっぽにたらぬはたをうつ
明治三一年作。「花岡山」という前書がある。花岡山は熊本市の南西にある小山である。それに連なる大地の一角で、「十歩に足らぬ」ほどの小さな畑を打ちながら、時々仕事の手を休めて、海を見る農民のつつましく静かな暮らしぶりが描かれている。季語「畑打ち」=春
え ゑいやっとはえたたきけりしょせいべや
明治二九年作。「書生」とは他人の家に住みこみ、衣食住の世話になりながら勉学にはげむ学生のこと。のちに漱石自身五高生を書生として部屋に置くことになる。勉強の進みぐあいがうまく行かないいらだちを蠅に向けている様子が「ゑいやっと」によく表現されている。季語「蠅」=夏
お おんせんやみずなめらかにこぞのあか
明治三一年末、小天旅行の折の作。前書は「小天に春を迎へて」。白楽天の「温泉の水滑らかに凝脂を洗ふ」という句を踏まえている。『草枕』の主人公が「温泉という名を聞けば必ずこの句にあらわれたような愉快な気持ちになる」と言っていることからもわかる。小天温泉の質のよさと歳末のあわただしさから逃れてきてほっとした気持ちがよく出ている。季語「去年の垢」=冬
か かしこるひざのあたりやそぞろさむ
明治三二年作。「倫理講話」の前書がある。倫理科の授業は各学年各学級と合わせて週一回行われていた。「かしこまる膝」という表現によって、その授業が五高生にとっては厳しいものであったことがわかる。「かしこまる」と「そヾろ寒む」とが呼応して、倫理講話の緊張感が伝わってくる。季語「そヾろ寒む」=秋
き きしゃをおいてけむりはいゆくかれのかな
明治二九年作。阿蘇のような広大な景色を詠んだもの。見渡すかぎりの枯野のなか、石炭を焚いて黒い煙を棚引かせながら勢いよく走っている汽車の様子を「汽車を遂て這行」という擬人化して描いているところがおもしろい。季語「枯野」=冬
く くさやまにうまはなちけりあきのそら
明治三二年作。「戸下温泉」(阿蘇)という前書のある句。阿蘇の小高い草原に放牧されている馬を描いている。「放ちけり」には、旅人としての漱石の解放感が投影されている。澄み切った「秋の空」も、その解放感にさわやかさを添えている。季語「秋の空」=秋
け げがきするおうばくのそうなはそくひ
明治三〇年作。「字」という前書きがある。「夏書」とは、夏の期間修行するなかで写経を行うことである。「即非」という黄檗宗のお坊さんの名前がおもしろく、いかにも禅宗らしいところに興味を覚えて詠んだもの。漱石は禅宗に人並ならぬ関心を持っていて、最初の精神的な危機を迎えたとき参禅している。季語「夏書」=夏
こ こがらしやうみにゆうひをふきおとす
明治二九年、五高生を引率して天草・島原へ修学旅行したときの作。天草灘に沈む夕日を詠んだものと思われる。そう思うと、水平線しか見えない海原に夕日を吹き落とすくらいの「凩」が吹いても不思議ではない。広大でダイナミックな自然を描いてみごとである。季語「凩」=冬
さ さっとうつよあみのおとやはるのかわ
明治三一年作。「白川」という前書きがある。白川は熊本時代四番目の転居地である井川端町の家の近くを流れている川である。夜の網掛けの雰囲気を「颯と」という擬態語で表現している。白川の春ののどかな感じがよく出ている。季語「春の川」=春
し しぐるゝはへいけにつらしごかのしょう
明治二九年作。平家の落人が住んでいるという「五家荘」。郷土史に関する関心度をはかることのできる句である。源平合戦をよく詠んでいる漱石にとって、これも歴史句の一つ。都育ちの平家にとって、「時雨るゝ」五家の荘という秘境での生活はつらいだろうとおしはかっている。季語「時雨」=冬
す すみれほどなちいさきひとにうまれたし
明治三〇年作。転生への願いを美しくかれんな「菫」に託した句。のちに文豪と称される人の言葉としては意外に思われるが、漱石は決してはなやかで世慣れた人物は好きではなかった。「菫ほどの」より「菫ほどな」と小休止したほうが「菫」のやさしい感じがよく出てくる。季語「菫」=春
せ せんせいのそぜんをふくやあきのかぜ
明治三二年作。「教室」という前書のある句。「疎髯」とはまばらに生えている頬のひげのこと。漱石自身の授業風景かどうかわからないが、頬ひげに焦点をあてていることで、先生の日頃の厳しい表情が見えてくる。そして、「疎髯を吹く」としたところが、厳しいながらもちょっとこっけいな教師の授業風景が浮かび上がってくる。季語「秋の風」=秋
そ そりばしのちいさくみゆるふようかな
明治二九年、鏡子夫人を伴った北九州の旅の句。前書は「太宰府天神」。心字池に架かっている遠くの朱色の「反橋」と大きな花弁を持つ優雅な「芙蓉」との取り合わせが太宰府天満宮の美しくおごそかな境内の様子を表している。季語「芙蓉」=秋
た だいじじのさんもんながきあおたかな
明治二九年作。熊本市南部にある曹洞宗の古刹大慈禅寺。あたり一面の青田のなかに参道の長い「門」に焦点をあてることによって、「大慈寺」のたたずまいが見えてくる。「青田」の青と「山門」の色との対比も、「大慈寺」の風格のあるさまをよく表現している。季語「青田」=春
ち ちくごじやまるいやまふくはるのかぜ
明治三〇年、実家久留米に帰っていた親友菅虎雄を見舞い、高良山から発心公園の桜を見学した折の作。「丸い山」はやわらかな「春の風」が吹くのにふわしく、この二語によって、山といってもそう高くない山が想像されて、筑後平野の風景の特色がみごとにとらえられている。季語「春の風」=春
つ つきにいくそうせきつまをわすれたり
明治三〇年作。「妻を遺して独り肥後に下る」という前書によれば、「月に行く」は月の夜に熊本にもどるということである。月のあまりの美しさに妻を忘れてしまったという意味である。実際は流産した妻鏡子のことが気になっている句という。この逆説的な表現に、漱石の男のはにかみといきあるさまが見られる。季語「月」=秋
て てらまちやどべいのすきのぼけのはな
明治三二年作。「寺町」という語によって、「土塀」が昔ながらの立派なものであることがわかる。その隙間から木瓜の花が顔をのぞかせているのを詠んだもの。「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」の句のように、木瓜に拙を守る自分を重ねた漱石の目には、「寺町」・「土塀」の古風さにひきつけられたのであろう。季語「木瓜の花」=春
と どっしりとしりをすえたるかぼちゃかな
明治二九年作。前書「承露盤」より。あらゆる修辞法を使って「南瓜」の特徴が描かれている。まず「どつしりと」という擬態語によって南瓜の大きさ・量感が表現され、「尻を据えたる」という擬人法は南瓜の安定感をよく表している。「尻」の一語はこの句のこっけい感をかもし出している。季語「南瓜」=秋
な ながきひやあくびうつしてわかれゆく
明治二九年作。「松山客中虚子に別れて」という前書にあるとおり、五高に赴任する途中、高浜虚子との別れに際して詠まれたものである。「永き日」と「あくび」との取り合わせによって、春の日永ののどかさが感じられ、「あくびうつして」には二人に気安い関係がそれとなく表現されている。季語「永き日」=春
に にりくだるふもとのむらやくものみね
明治二九年作。「雲の峰」とは入道雲のこと。二里下ったところにある麓の小さな村を見下ろしているのを詠んだもの。その山の上には大きな「雲の峰」がそびえている。大と小との対比がおもしろく、「雲の峰」が立派であればあるほど「麓の村」のつましさがいっそう感じられる。秘境の生活を思いやった句。季語「雲の峰」=夏
ぬ ぬかるみのなおしずかなりはるのくれ
明治三〇年作。「泥海」はぬかるみと読むのはあて字。「泥海」という字面から有明のような海の干潟のことを詠んだものと推測される。「春の暮れ」という言葉によって、鉛色の海面の静けさと「猶」といったことで「泥海」の静けさとが重なって、春の夕暮れの海の静かな雰囲気がひしひしと伝わってくる。季語「春の暮れ」=春
ね ねぎのこのえぼしつけたりふじのはな
明治三一年作。前書は「藤崎八幡」。藤崎八幡宮は井川端町にあり、軍神としても有名である。祢宜とは神主のもとで働く神職。その子供が子供にとっては大きめの「烏帽子」をかぶっているというのである。藤棚の下を通って行く子供の父の職業にふさわしいみやびやかさが表された句である。季語「藤棚」=春
の のぎくいちりんてちょうのなかにはさみけり
明治三二年、阿蘇の旅の作三四句中の一つ。旅の途中、手折った野菊を句帳かなにかの手帳のあいだにしおりのように差し挟んだという。風流心を楽しむ若き日の漱石の姿が浮かび上がってくる。季語「野菊」=秋
は はるのあめなべとかまとをはこびけり
明治三三年、「北千反畑に転居」という前書にあるとおり、六度目の引っ越しをすることになる。このあたりは藤崎宮に近く、今も静かな住宅地である。「鍋と釜」とは家財道具一切を指しているが、「鍋と釜を運びけり」といったところに、引っ越しの身軽さと引っ越し慣れした気分とが感じられる。季語「春の雨」=春
ひ ひとにししつるにうまれてさえかえる
明治三〇年作。「冴返る」とは、ゆるんだ寒さががぶりかえすという意味。寒気の中にすくっと立っている鶴に、生まれ変わった人間の姿を見ている。漱石にとって「鶴」は孤高の象徴であるという。「冴返る」という季語と鶴への転生という言葉とがよく響き合い、純粋な美へのあこがれが読み取れる。季語「冴え返る」=春
ふ ふるいよせてしらうおくずれんばかりなり
明治三〇年作。半透明の「白魚」のかよわさと美しさを詠んだものである。四ッ手網などで掬い取られた「白魚」に焦点をあてて、一瞬の景を「崩れん許り」という比喩によって的確に表現している。季語「白魚」=春
へ へやずみのぼうつかいおるつきよかな
明治三二年作。「部屋住」とは書生のこと。経済的に苦しい学生は他人の家に住み込み、家の雑用をするかわりに勉学に励むことができた。漱石も書生を抱えていて、その一人を詠んだもの。月の美しい夜に勉強にうんだ「部屋住」が「棒」(竹刀)を振って、体をほぐし、鍛えている情景が思い浮かべられる。季語「月夜」=秋
ほ ぼけさくやそうせきせつをまもるべく
明治三〇年作。『草枕』の主人公に「世間には拙を守るという人がいる。この人が来世に生まれ変わるときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい」と言わせている。頑固者の意である「漱石」という号にしても、「拙を守る」という言葉にしても、決して上手な生き方を望まない人生態度を表明したものである。季語「木瓜の花」=春
ま まくらべやほしわかれんとするあした
明治二九年作。「内君の病を看護して」という前書によると、「枕辺」で看病して夜明けを向かえたが、その七月八日の朝は年に一度の逢瀬を楽しんだ牽牛と織女が別れて行く「星別れ」であったというのである。妻の病気に対する不安と妻への思いを込めている句である。季語「星別れ」=秋
み みずぜめのしろおちんとすさつきあめ
明治三〇年作。歴史上のできごとを句にするのが好きであった漱石が水攻めした豊臣秀吉の故事を踏まえて詠んだものである。大洪水を起こしそうな梅雨のなかの熊本城から実際にヒントを得たのかも知れない。「城落ちんとす」と比喩することによって、「五月雨」の量感をダイナミックに描き出している。季語「五月雨」=夏
む むしうりのあきをさまざまになかせけり
明治三〇年、一時上京した折の作。「虫売」が虫籠に入れている多くの虫がいろいろな鳴き声を響かせているのを詠んだもの。虫がそれぞれその虫特有の鳴き方をしているのを「秋をさま 鳴かせけり」ととらえているところがおもしろい。季語「虫売り」=秋
め めいげつやじゅうさんえんのいえにすむ
明治二九年、三度目に移り住んだ合羽町(現坪井)での作。「十三円」とは家賃のことであるが、新築でありながら粗雑な普請であったことに対しての不満が込められている。しかし、「名月」という季語によって、その不満をよそに自然に親しもうとする風流心が表されている。季語「名月」=秋
も もちをきるほうちょうにぶしふるごよみ
明治二九年作。日常生活の一端を切り取って詠んだもの。のし餅を切る感触を「鈍し」と表現したことによって、日数の少なくなった暦という意の「古暦」とともに、暮れの生活のあわただしくもけだるい雰囲気をうまく伝えている。季語「古暦」=冬
や やすやすとなまこのごときこをうめり
明治三二年、長女筆子が生まれたときの印象の句である。「海鼠の如き」には赤ん坊の得体の知れない姿がよくとらえられている。「安々と」という言葉はむろんのこと、父親として初産の安心感を詠んだものと思われる。季語「海鼠」=冬
ゆ ゆけどはぎゆけどすすきのはらひろし
明治三二年作。「阿蘇の山中にて道を失ひ終日あらぬ方にさまよふ」という前書がある句。このときの体験が「地にあるものは青い薄と、女郎花と、所々にわびしく交る桔梗のみ」という『二百十日』の作品に生かされている。萩と薄だけが生い茂っている草原のひろがりと次々にわき起こる不安とが「行けど」のくり返しで表現されている。季語「萩・薄」=秋
よ ようやくにまたおきあがるふぶきかな
明治三二年の正月、宇佐・耶馬渓・日田の約一週間の旅をし、前書によれば「峠を下る時馬に蹴られて雪の中に倒れければ」ということが起こった折の作であるという。日田に下る大石峠でのできごとであった。吹雪のなか起き上がった人物に焦点をあてて、白黒の無声映画の一場面を思わせる印象鮮明な句である。季語「吹雪」=冬
ら らちもなくぜんしこえたりころもがえ
明治三〇年作。「埒もなく」はだらしくなくという意味であるが、決して悪い意味ではなく、軽快な夏の服装になった禅宗の格の高いお坊さんの、いかにも高僧らしい様子を表したものである。当時の禅ブームのさなか禅宗への関心の深さを知ることのできる句である。季語「更衣」=夏
り りょうじょうのくんしとかたるよさむかな
明治三〇年作。「梁上の君子」とは中国の故事成語で、ドロボーの意味であるが、ここではそれから転じてネズミのことである。屋根裏でガサゴソと音を立てているネズミに向かって語り掛けている人のさまは、「夜寒」の季語とあいまって、わびしくもあり、こっけいでもある。季語「夜寒」=秋
る るりいろのそらをひかえておかのうめ
明治三二年作。前書「梅花百五句」の一句。「瑠璃色」とは紫がかった紺色のことであり、青色と同意である。よく晴れ渡った青い空のもと、梅の白い花びらがいっそう際立って見えるという色の対照を表現している。見晴らしのよい「岡の梅」の気品とすがすがしさを詠んだものである。季語「梅」=春
れ れっしけんをましてかげろうむらむらとたつ
明治三〇年作。浅草観音の境内の様子を「子供の時から常に陽炎っていた」と『彼岸過迄』で書いていることや、浅草観音の実在の大道芸人を詠んでいる「抜くは長井兵助の太刀春の風」の句があることから、この句もその大道芸人を描いているのかも知れない。大道芸人扮する「列士」に磨かれた「剣」から陽炎がたっている様子を表現している。季語「陽炎」=春
ろ ろうたんのうときみみほるこたつかな
明治三二年作。「老 」は老子のことである。しかし、ここでは老人一般のイメージとして受け取ってよい。耳が遠く、感じのいい老人が耳の垢を取っている姿にひかれて作った句である。冬の一時をくつろいでいる雰囲気が「火燵」という季語によく現れている。「老 」という言葉には、その老人をうやまう気持ちが表されている。季語「火燵」=冬
わ わくからにながるるからにはるのみず
明治三一年作。「水前寺」という前書のある句。水前寺成趣園の池は、阿蘇の伏流水である清水が湧き出ている。つぎつぎに湧いて流れる水のさまを「湧くからに流るゝからに」と的確に表現している。特に「からに」のくり返しが湧水のリズムを捉えている。「春の水」=春
三島由紀夫における〈老い〉の問題
初出 「方位」17号 三章文庫 1994・9
初めに
三島由紀夫(大正十四年~昭和四十五年)の場合、今もなお生きていて、老大家として文壇に声名をほしいままにしている姿を想像できるだろうか。このような想像は繰り返しようのない歴史において禁物であるが、ここで三島についてこう問うてみたい誘惑に駆られるのは私だけであろうか。三島には老大家として名をはせる条件は十分に整っていたといえる。生前の三島はすでに世界の作家として知名度は高く、ノーベル賞候補にも川端康成、井上靖とともに再三推挙されていた。
しかし、三島由紀夫は自らの生涯を四十五歳で終止符を打っている。これは動かしようのない厳然とした事実である。そのことをどう考えたらよいのだろうか。昭和四十二年一月元旦の「年頭の迷い」と題する『読売新聞』の文章のなかで「西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行って神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋晴堅が、私と同年で死んだという発見であった。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合う」と述べていることから、三島の脳裏では四十代前半という年齢もまんざら捨てられたものではなく、《英雄》としての死を可能ならしめる、まさしく「英雄たる最終年齢」と意識されていたようである。つまり、三島は、衰弱死とか病死とかいった一般的で、しかも自然的な終焉を拒否し、四十五歳という「英雄たる最終年齢」で自決して果てたのである。
従って、このような事情から言えば、「三島由紀夫のような作家には、いくつかの傑作をものにし、功成り名遂げて、今や筆を捨て悠々自適の老後を送るといったことは考えられないであろう」(「三島由紀夫論」『特集三島由紀夫』・ユリイカ十月号) という岸田秀氏の指摘を待つまでもなく、老大家としての三島はこの世に存在しえず、想像してみることすら無意味であるといえまいか。三島自身、「一体、作家の精神的発展などというものがあるかどうか、私は疑っている」(「一八歳と三十四歳の肖像画」の冒頭) と述べていることも、〈老い〉になんらの意味も見出だせない彼の、作家としての至極当然な言葉であろう。そこに、〈老い〉を拒否した三島由紀夫の作家像を想定してみるのも悪くない。
一 〈老い〉について
老いが同時に作家的主題の衰滅を意味する作家はいたましい。肉体的な老いが、彼の思想と感性のすべてに逆らうような作家はいたましい。
この文章は、谷崎潤一郎について書かれた作家論(「谷崎潤一郎」「日本文学全集」一二・昭四一・一〇)である。〈老い〉と〈作家〉との関係を究明したこの作家論は、三島が一流の批評家であったことを余すことなく示しているが、それ以上に三島の〈老い〉に対する思想を谷崎の文学を通して披歴している点で注目に値する。それは、年齢と能力との関係において、両者が「衰滅」という言葉で言い表されているように下降していくものであると捉えている点である。芸術が年齢とともに成熟、ないし醸成するものであるという一般的な考え方と照らし合わせてみても、彼のこの認識の特異性は明らかであろう。
この文章のすぐ後に続いて、「(私は自分のことを考えるとゾッとする)」と書いていることからも窺えるように、この文章が、この文章を書いた時の四十一歳という年齢を考慮に入れながら本音で語っているものであることはまちがいなく、この時点での三島が作家としての〈老い〉の問題を真正面から考えようとしていたことを証拠だてるものである。
二 二つの作家像
しぶとく生き永らえるものは、私にとって、俗悪さの象徴をなしていた。私は夭折に憧れていたが、なお生きており、この上生きつづけなければならぬことも予感していた。
この文章は、「林房雄」(『新潮』昭三八・二) という作家論の中の一節である。この作家論もまた、「谷崎潤一郎」論と並んで〈老い〉に関する記述が多く見られる。それは、この二人の作家が「しぶとく生き永らえるもの」の〈象徴〉として存在しているという、まさしくその長生きの秘訣を文学の上からも知って置きたい気持ちがあったからであろう。
このように、両者の作家論に共通するのは、三島が〈老い〉を「俗悪さの象徴」とみなし、〈老い〉に対する異常なまでの生理的とも言うべき嫌悪をあらわにしていることである。それと同時に、〈老い〉を否定する三島が〈夭折〉への憧憬に触れていることも注意すべきである。つまり、三島由紀夫の中では〈老い〉への嫌悪と〈夭折〉とは表裏一体のものとして把握されているのである。
三島由紀夫の〈夭折〉への願望についてはしばしば言及されているが、特に磯田光一は評論家としてのデビューを飾った『殉教の美学』(昭39・2) のなかで、三島の〈夭折〉の哲学を明らかにしている。そこで、磯田が〈夭折〉の三島文学における意味を「三島の不幸は、そして彼の本質的な悲劇は、『生』と『死』とを意味づける原理の崩壊によって、つまり、彼から『美しい夭折』の可能性をうばった『敗戦』によってもたらされたのである。そして、彼を作家たらしめたものも、この『不幸』以外の何ものでもなかった」と述べ、美しい〈夭折〉への挫折と、その不幸が三島の作品のモチーフとなっていることを指摘している。これまでの多くの論考も、三島が〈夭折〉への願望を一貫して持ち続けているかのように述べている。
しかし、次のような文章(『私の遍歴時代』)に接すると、三島が〈夭折〉への願望を一貫して持ち続けていたとは言いがたい。
早くも、若さとか青春とかいうものはばかばかしいものだ、と考えだしている。それなら「老い」がたのしみか、と言えば、これもいただけない。
〈夭折〉願望はそもそも「若さ」や「青春」という時代の真っ只中にいて、それ以外の人生を知らない無知からくるものであって、この文章を書いた三十八という歳の三島は自分の青春時代がようやく遠ざかってみえてきていたはずである。そして、思い返せば、三十歳を越えてから鍛え始めた肉体はいや応なく頑強になっていったであろうから、同じ頃『林房雄』論の中で述べているように「なお、生きており、この上生きつづけなければならぬ」ということを当然意識しなければならない。
私も二、三年すれば四十歳で、そろそろ生涯の計画を立てるべきときが来た。芥川 龍之介より長生きをしたと思えば、いい気持ちだが、もうこうなったら、しゃにむに長生きをしなければならない。(中略)人間、四十歳になれば、もう美しく死ぬ夢は 絶望的で、どんな死に方をしたって醜悪なだけである。それなら、もうしゃにむに生きるほかない。
従って、この「純文学とは? その他」(『風景』六月号・昭37) という文章もまた、三十七歳の時に執筆されていることから、「もうしゃにむに生きるほかない」生を前に立ち尽して、人生上の選択を余儀なくされている三島由紀夫の姿が浮かび上がっており、この時期が彼にとって〈老い〉を迎えるべきか否かを決定しなければならない人生の《迷いの時代》であったといえる。
人生の選択を強いられた《迷いの時代》の三島由紀夫の脳裏には、日本のさまざまな作家像の中からは次の二つのタイプをくっきりと浮かび上がらせていたにちがいない。
一つは「しぶとく生き永らえ」ながら、文学的な成熟をなしえた〈長寿〉型の作家、例えば、谷崎潤一郎のような作家である。
もう一つは、短命であるがゆえに文学史上に光茫を放った〈夭折〉型の作家、立原道造ような作家である。〈夭折〉には、病死、不慮の死、あるいは自殺の類いがあることを付加して置きたい。
〇 〈長寿〉型の作家=谷崎潤一郎
野口武彦氏がすでに「当人は四五歳で自殺するくせに、七九歳まで長生きして『変態小説』を書き続けた谷崎のことがよくわかっていたのだ。というより、作者をその年齢まで長生きさせた谷崎文学の本質に、心のどこかでは羨望の気持ちさえ持っていたのかもしれない」(「谷崎潤一郎」『近代小説の読み方?』有斐閣・一九七九・八)と述べているが、これは、三島の「谷崎潤一郎」論の次のような文章を踏まえての言葉であろう。
谷崎氏のかかるエロス構造においては、老いはそれほど恐るべき問題ではなかった。(中略)老いは、それほど悲劇的な事態ではなく、むしろ老い=死=ニルヴァナにこそ、性の三昧境への接近の道程があったと考えられる。小説家としての谷崎氏の長寿は、まことに芸術的必然性のある長寿であった。この神童ははじめから、知的極北における夭折への道と、反対の道を歩きだしていたからである。
野口氏が指摘したように、三島由紀夫は〈長寿〉的な作家としての谷崎の本質を恐ろしいくらいに掴んでいた。それは谷崎の〈長寿〉が「老い=死=ニルヴァナ」という三者の「性の三昧境」を芸術的に昇華したところに必然的に生じるのを見抜いていることである。それほど彼にとって谷崎は〈長寿〉的な作家の典型的な存在だったと言えるだろう。
また別の機会に書いた「私のきらいな人」(「話の特集」七月号・昭41) という文章では、
私の来たるべき老年の姿を考えると、谷崎潤一郎型と永井荷風型のうち、どうも後者に傾きそうに思われる。(中略)しかし、私は荷風型に徹するだけの心根もないから、精神としては荷風型に近く、生活の外見は谷崎型に近いという折衷型になることだろう。
と述べている。この文章で大切なことは、三島が〈老い〉を迎えるとしたら、谷崎潤一郎の名前を挙げていることである。つまり、三島由紀夫は一時期にしろ、芸術的成熟にあこがれを持ち、谷崎等の〈長寿〉型の生活を心に描きながら、〈老い〉というものを仮想したこともあったのだということを提起して置きたい。
〇 〈夭折〉型の作家=立原道造
ここで立原道造を例として取り上げるのは、三島が自決する数ヶ月前、岸田今日子氏に「詩人として生涯を終わるためには、立原道造のように夭折しなくては………」と語ったとされているからである。三島由紀夫がこのようなことを吐露した背後には、三好達治が立原を追悼して作った「暮春嘆息」という次の詩を思い浮かべていたにちがいない。
人が 詩人として生涯ををはるためには
君のやうに聡明に清純に
純潔に生きなければならなかつた
さうして君のやうにまた
早く死ななければ!
三島が語ったという言葉とこの詩の冒頭の一行とは驚くほど似通っている。というより、三島のあの割腹自殺がまさしくこの詩句の内実に添うかたちで実行されたと言ったらよいだろうか。三好の詩を参考にして言えば、特に「聡明に」「清純に」「純潔に」という言葉が表象している〈純粋性〉に魅かれていたのかもしれない。三島の自決を先取りしたとされる『奔馬』という作品のなかで、拘置されている主人公飯沼勲に対して刑事がいさめる場面があるが、勲はそこであまりにも「純粋すぎる」と評されている。三島由紀夫もまた、勲と同じく、〈純粋さ〉への篤い忠誠心と言えば言える性格の持ち主であったことは疑いのないところである。
三 三島由紀夫の選択
三島由紀夫は遅かれ早かれ選ばなければない人生の岐路に立たされて、二つの作家像の一方を強引に選んだ。それはもちろん、立原のような〈夭折〉型の作家であり、しかも実際は芥川龍之介のように自殺という形である。自己の〈純粋性〉保持という形での死を選んだのは、三島が「谷崎氏は、芥川の敗北を見て、持ち前のマゾヒストの自信を以て、『俺ならもっとずっとずっとうまく敗北して、そうして長生きしてやる』と呟いたにちがいない」(「谷崎潤一郎」昭29・9)と述べているように、〈長寿〉型の作家のずるさを見通しているからであり、端的に言えばそれが我慢ならかったからである。ただ、三島にとって四十代での死は〈夭折〉とは言いがたく、むしろ《英雄としての死》として〈老い〉に対処したと言えるだろう。
このように、三島の作家論を中心とした読み取りでは、三島由紀夫が〈純粋さ〉への憧れから〈夭折〉型の作家を選び、〈老い〉のずるさを拒否したのは明らかである。しかし、単にそれだけの説明で事足れりとすることができるだろうか。この〈老い〉の問題は、彼にとってもっと本質的なものを抱えているような気がする。
三 《老醜》について
美しい人は夭折すべきであり、客観的に見て、美しいのは若年に限られているのだから、人間はもし老醜と自然死を待つ覚悟がなければ、できる限り早く死ぬべきなのである。
「アポロの杯」
三島由紀夫は〈老い〉が人間的成熟をもたらす面を無視して、ひとえに《老醜》と一体化されたものとみなしている。ここでもまた、三島自身のちに『二・二六事件と私』で語っている「老年は永遠に醜く、青年は永遠に美しい」という「生来の癒しがたい観念」を吐露しているのである。
従って、三島由紀夫にあっては、〈夭折〉への願望は〈老い〉への嫌悪によって導き出されており、〈老い〉への拒否は《老醜》への嫌悪と深く結び付いているということである。
〇 祖母夏子の存在
三島由紀夫のこの《老醜》に対する嫌悪感の根は、その経歴によれば、乳幼児期を「病気と老いの匂ひのむせかへる」(『仮面の告白』) 中で過ごすことになる、「誰が見ても異常としか言いようのない環境であった」(岸田秀・前掲書)祖母の存在にある。父平岡梓氏の「倅・三島由紀夫」の中に描かれている祖母夏子は、《老醜》そのものの権化とも言うべき老婆の姿である。
…‥かくて生まれ落ちるとすぐ産みの親 の私と別れて、絶えず痛みを訴える病床の祖母のそばで成長するという、こんな異常な生活が何年も続くことになりました。私はこれで公威の暗い一生の運命はきまってしまったと思いました。
‥‥遊び相手としては男の子は危ないといって、母[祖母]の部屋には、母[祖母]があらかじめ銓衡しておいた三人の年上の女の子を呼びました。/したがって遊びは おのずからママゴトや折紙や積み木などに限定され、それ以外の男の子らしい遊びなど以ての外でありました。
‥‥外は明るいのに家の中は暗くしめっぽいので、少し外気を吸わせ陽の光にあててやろうとこっそり連れ出そうとしますと、母[祖母]はとたんに目をさまし、禁足されて、またもとの障子を締め切った暗い陰気な母[祖母]の病床の間に連れ戻されてしまいました。
この祖母の幼い三島に対する行為は老人特有のエゴイスティックな心情によるものであり、結局老人の孤独性に帰せられるべきものであって、まったく同情できないことはない。しかし、年端も行かない三島を独占し、恣意的に支配した事実は彼が抵抗しえない子どもであったがためにあまりに悲惨すぎはしないか。父梓氏に限らず、「公威の暗い一生の運命はきまってしまった」と思うのはこれまた当然である。
いずれにしても、その当時の三島は、あまりにも自己中心的で支配欲の強い祖母の枕許でじっと耐えながら、《老醜》の悲惨なさまをしっかと見据えていたにちがいない。この体験は幼児体験であるだけに後々までも根深く痕跡を残し、「人間はもし老醜と自然死を待つ覚悟がなければ、できる限り早く死ぬべきなのである」という認識を育て上げた。
終わりに
三島由紀夫の自死が反時代的で、しかも日本刀による矯激な割腹自殺であったことから、内外をはじめ各方面に甚大な反響を呼び起こした。時の首相佐藤栄作が「盾の会」の国粋的活動に好意を持っていたにもかかわらず、「気が狂ったとしか思われない」と発言したことは、当時の一般大衆の反応を代弁してみせたといっても過言ではない。しかし、三島の血みどろな自裁への直接行動の経過がその後次第に明らかにされるに従って、例えば、その当日、市谷駐屯地の東部方面総監室の屋上で自衛隊員に決起を呼びかけたとき、現代文明の利器たるハンド・マイクを持っていなかったことが失笑の対象にもなったが、それこそが現代文明に対するアンチ・テーゼを投げかけているのだということが了解されて、実は一連の行動は用意周到に考え抜かれたものであることがわかってきた。
三島由紀夫の自決がそれ自身の思想と不可分のものであり、またその帰結であったことは今や疑うべくもない。作家の自殺というものが芥川の例を引くまでもなく、往々にして文学的営為の行き詰まりによる窮死に求められるが、三島の場合はむしろ〈老い〉の思想をふくめた思想の完結、つまり萩原朔太郎が芥川に対して言った言葉よろしく「実に彼は、死によってその『芸術』を完成し、合わせて彼の中の『詩人』を実証した」(「芥川龍之介の死」)といえるものではなかったか。
従って、三島由紀夫の意識的になされた自死が文学者における〈思想〉と〈行為〉の課題を投げ掛けていることを指摘して置きたい。
註一 拙論「三島由紀夫と〈熊本〉」(『熊本の文学 第三』審美社・平5)参照。ここでは、三島由紀夫がその自決の規範として神風連を想定して いることに触れている。
註二 小島千加子氏が元「新潮」の編集者として回想した文章(「毎日新聞」平1・7・12) のなかで、「初対面の日、人間の美しさに話題が及び、先代菊五郎未亡人が六十を過ぎても男に惚れられるほど美しく、男に限らず、女でも、名妓であったような人はある種の老いの美が出てくるものだ、(中略)と語った。「美は、美であることによってすでに一徳を成す」という定見を持つこの作家は、その時まだ、老いの美を許容する若さの真只中にいた」と述べている。〈老いの美〉にしろ、〈老い〉による芸術的成熟にしろ、若き日の三島はまだ〈老い〉にある種の幻想を抱いていたことは確かである。
註三 三島由紀夫の遺書とも言うべき『豊饒の海』第四巻の最終巻「天人五衰」の結末部分において、輪廻転生の認識者として《老醜》を曝した本多繁邦の前に、綾倉聡子が「老いが衰えの方向でなく、浄化の方向へ一途に走っ」た美しさで現れる。これは、今となっては三島の〈老い〉に対する悲痛な願望ではなかったかと思わずにはおられない。
初出 「日本の近代小説」 近代文学研究編(改訂版)
協和書房 平成2005年3月15日
上海
横光利一(よこみつりいち) 一八九八(明治三十一)年三月十七日~一九四七(昭和二十二)年十二月三十日。福島県北会津郡東山村(現会津若松市東山町)の東山温泉で父横光梅次郎、母こぎくの一女一男の長男として生まれる。早稲田大学高等予科文科修了、同政治経済学部中退。大正八年に友人の紹介で菊池寛と会い、師事する。大正十三年に早大高等予科の同級で詩の仲間だった小島勗の妹キミと結婚するが、昭和元年に結核で死去。「春は馬車に乗つて」(昭和元年)は妻の療養生活とその死を描いている。大正十二年の「蠅」「日輪」などの、人間を客体化して描こうとする視点、即物的な比喩、翻訳調の文体、乾いた抒情性などによって新時代の作家として認められるようになる。大正十三年に川端康成、片岡鉄兵らと「文芸時代」を創刊。「ナポレオンと田虫」などに見られるような西欧の二十世紀前衛芸術と科学技術の発展による新しい世界観の影響を受けたモダニズム的特徴は「新感覚派」と命名される。昭和五年の「機械」(「改造」)は、何ものかに支配され歯車のように動かされて行く人間の運命を描き、昭和初期の文学史を代表する傑作の一つになる。昭和三年に中国に一ヶ月滞在、この経験を素材に書いた昭和七年『上海』(改造社)は中国現代史の激動の中の人間の集団、その運動を描いた最初の長編である。横光は旧派の自然主義的リアリズムとプロレタリア文学に対決して心理主義に進み、続いて長編『寝園』長編『紋章』などを発表する。十一年にヨーロッパ各地を旅し、その成果は『旅愁』における日本の伝統への回帰の主題となる。敗戦後は戦時下の銃後文芸運動による戦争協力によって戦争責任を問われることとなる。
A お杉は街から街を歩いて参木の家の方へ帰って来た。どこか自分を使う所がないかと、貼り紙の出ている壁を捜しながら。ふと彼女は露路の入口で売ト者を見つけると、その前で立ち停った。昨夜自分を奪ったものは、甲谷であろうか参木であろうかと、また彼女は迷い出したのだ。お杉の前で観て貰っていた支那人の娘は、壁にもたれて泣いていた。売卜者の横には、足のとれかかったテーブルの屋台の上に、豚の油が淡黄く半透明に盛っ上って縮れていた。その縮れた豚の油は、露路から流れて来る塵埃を吸いながら、遠くから伝わる荷車の響きや人の足音に、絶えずぶるぶると懐えていた。小さな子供がその背の高さを、丁度テーブルの面まで延ばしながら、じっと慄える油に鼻のさきをひっつけていつまでも眺めていた。その子の頭の上からは、剥げかかった金看板がぞろりと下り、弾丸に削られた煉瓦の柱はポスターの剥げ痕で、張子のように歪んでいた。その横は錠前屋だ。店いっぱいに拡った錆びついた錠が、蔓のように天井まで這い上り、隣家の鳥屋に下った家鴨の首と一緒になって露路の入口を包んでいる。間もなく、豚や鳥の油でぎらぎらしているその露路の入口から、阿片に青ざめた女達が眼を鈍らせながら、蹌踉と現れた。彼女達は売卜者を見ると、お杉の肩の上から重なって下のブリキの板を覗き込んだ。
ふとお杉は肩を叩かれで振り返った。すると、参木が彼女の後に立って笑っていた。お杉は一寸お辞儀をしたが耳を中心に彼女の顔がだんだんと赧くなった。
「御飯を食べに行こう。」と参木が云って歩き出した。
お杉は参木の後から黙って歩いた。もういつの間にか夜になっている街角では、湯を売る店頭の黒い壷から、ほのぼのとした湯気が鮮かに流れていた。そのとき、参木は後から肩を叩かれたので振り向くと、ロシア人の男の乞食が、彼に手を差し出して云った。
「君、一文くれ給え。どうも革命にやられてね、行く所もなければ食う所もなし、困ってるんだ。これじゃ今にのたれ死にだ。君、一文恵んでくれ給え。」
「馬車にしようか。」と参木はお杉に云った。
お杉は小さな声で頷いた。馬車屋の前では、主婦が馬の口の傍で粥の立食いをやっていた。二人は古いロココ風の馬車に乗ると、ぼってりと重く湿り出した夜の街の中を揺られていった。
参木はお杉に、自分も首になったことを話そうかと思った。しかし、それではお杉を抛り出すのと同じであった。お杉の失職の原因が彼にあるだけ、このことについては彼は黙っていなければならなかった。参木は愉快そうに見せかけながらお杉に云った。
「僕はあんたから何も聞かないが、多分首でも切られたんだろうね。」
「ええ。あなたがお帰りになってから。直ぐ後で。」
「そう。じゃ、心配することはない。僕の所には、あんたがいたいだけいるがいい。」
お杉は黙って答えなかった。参木は彼女が何を云いたそうにもじもじしているのか分らなかった。だが、彼には、彼女が何を云い出そうと、今は何の感動も受けないであろうと思った。露路の裏の方で、しきりに爆竹が鳴った。アメリカの水兵達がステッキを振り上げて車夫を叩きながら、黄包車に速力を与えていた。
馬車が道の四つ角へ来ると、暫くそこで停っていた。一方の道からは塵埃と一緒に、豚の匂いが流れて来た。その反対の方からは、春婦達がきらきらと胴を輝かせながら、揺れ出て来た。またその一方の道からは、黄包車の素足の群れが、乱れて来た。角の交通整理のスポットが展開すると、車輪や人波が、真蒼な一直線の流れとなって、どよめき出した。参木の馬車は動き出した。と、スポットは忽ち変って赤くなった。参木の行く手の磨かれた道路は、春婦の群れも車も家も、真赤な照明を浴びた血のような河となって、浮き上った。
二人は馬車から降りると人込みの中をまた歩いた。立ったまま動かない人込みは、ただ唾を吐きながら饒舌っていた。二人は旗亭の陶器の階段を昇って一室に納った。テーブルの上には煙草の大きな葉が壺にささったまま、青々と垂れていた。
「どうだ、お杉さん。あんたは日本へ帰りたいと思わんか。」
「ええ。」
「もっとも今から帰ったって、仕様がないね。」
参木は料理の来るまで、欄干にもたれて南瓜の種を噛んでいた。彼は明日から、どうして生活をするのかまだ見当さえつかないのだ。だが、そうかと云って日本へ帰ればなお更だった。どこの国でも同じように、この支那の植民地へ集っている者は、本国へ帰れば、全く生活の方法がなくなって了っていた。それ故ここでは、本国から生活を奪われた各国人の集団が寄り合いつつ、世界で類例のない独立国を造っている。だが、それぞれの人種は、余りある土貨を吸い合う本国の吸盤となって生活している。此のためここでは、一人の肉体は、いかに無為無職のものと難も、ただ漫然といることでさえ、その肉体が空間を占めている以上、ロシア人を除いては、愛国心の現れとなって活動しているのと同様であった。――参木はそれを思うと笑うのだ。事実、彼は、日本におれば、日本の食物をそれだけ減らすにちがいなかった。だが、彼が上海にいる以上、彼の肉体の占めている空間は、絶えず日本の領上となって流れているのだ。
――俺の身体は領土なんだ。此の俺の身体もお杉の身体も。――
その二人が首を切られて、さて明日からどうしたら良いのかと考えているのである。参木は自分達の周囲に流れて来ている旧ロシアの貴族のことを考えた。彼らの女は、各国人の男性の股から股をくぐって生活している。そうして男は、各国人の最下層の乞食となって。――参木は思った。
――それは彼らが悪いのだ。彼らは、自分の同胞を、男の股の下で生活させ、乞食をさせ続けて来たからだ。――と。
人は、自分の同胞の股の下で生活し、自分の同胞の中で乞食をするよりも、他国人の股の下で生活し、他国人の間で乞食をする方が楽ではないか。――それならと参木は考えた。
――あのロシア人達に、われわれは同情する必要は少しもない。――と。
しかし、参木は.お杉と自分が誰を困らせたことがあるだろうと考えた。すると、彼は、鬱勃として揺れ出して来ている支那の思想のように、急に専務が憎むべき存在となって映り出した。だが、彼は、自分の上役を憎むことが、彼自身の母国そのものを憎んでいるのと同様な結果になると云うことについては、忘れていた。然も、母国を認めずして、上海でなし得る目本人の行動は、乞食と売春婦以外にはないのであった。
B 高重の工場では、暴徒の襲った夜以来、殆ど操業は停止された。しかし、反共産派の工人達は機械を守護して動かなかった。彼らは共産派の指令が来ると、袋叩きにして川へ投げた。工場の内外では、共産派の宣伝ビラと反共派の宣伝ビラとが、風の中で闘っていた。
高重は暴徒の夜から参木の顔を見なかった。もし参木が無事なら、顔だけは見せるにちがいないと思っていた。だが、それも見せぬ。――
高重は工場の中を廻ってみた、運転を休止した機械は、昨夜一夜の南風のために錆びついていた。工人達は黙々とした機械の間で、やがて襲って来るであろう暴徒の噂のために、蒼ざめていた。彼らは列を作った機械の間へ虱のように挟まったまま、錆びを落した。機械を磨く金剛砂が湿気のために、ぼろぼろと紙から落ちた。すると、工人達は口々にその日本製のやくざなぺーパーを罵りながら、静ったベルトの掛けかえを練習した。綿は彼らの周囲で、今は始末のつかぬ吐潟物のように湿りながら、いたる所に塊っていた。
高重は階上から工場の周囲を見廻した。駆逐艦から閃めく探海灯が層雲を浮き出しながら、廻っていた。黒く続いた炭層の切れ目には、重なった起重機の群れが刺さっていた。密輸入船の破れた帆が、真黒な翼のように傾いて登っていた。と、そのとき、炭層の表面で、襤褸の群れが這いながら、滲み出るように黒々と拡がり出した。探海灯がそれら背中の上を疾走すると、濫襖の波は扁平に、べたりと炭層へへばりついた。
来た。――
高重は脊を低めて階下へ降りようとした。すると、倉庫と倉庫の間から、声を潜めて馳けている黒い一団が、発電所のガラスの中へ辷っていた。それは逞しい兇器のように、急所を狙って進行している恐るべき一団にちがいないのだ。
高重はそれらの一団の背後に、芳秋蘭の潜んでいることを、頭に描いた。彼は彼らの計画の裏へ廻って出没したい欲望を感じて来た。彼らは何を欲しているのか。ただ今は、工場を占領したいだけなのだ。――
高重は電鈴のボタンを押した。すると、見渡す全工場は、真暗になった。喚声が内外二ヵ所の門の傍から、湧き起った。石炭が工場を狙って、飛び始めた。探海灯の光鋩が廻って来ると、塀を攀じ登っている群衆の背中が、蟻のように浮き上った。
高重は彼らを工場内に導き入れることの、寧ろ得策であることを考えた。這入れば袋の鼠と同様である。外から逆に彼らを閉塞すれば、それで良いのだ。もし彼らが機械を破壊するなら、損失はやがて彼らの上にも廻るだろう。――彼は階段を降りていった。すると、早や場内へ雪崩れて来た一団の先端は、機械を守る一団と、衝突を始めていた。
彼らは叫びながら、胸を垣のように連ねて機械の間を押して来た。場内の工人達は、押され出した。印度人の警官隊は、銃の台尻を振り上げて、押し返した。格闘の群れが、連った機械を侵食しながら、奥へ奥へと進んでいった。と、予備品室の錠前が引きち切られた。場外の一団は、その中へ殺到すると、棍棒形のピッキングステッキを奪い取った。彼らは再びその中から溢れ出すと、手に手に、その鉄の棍棒を振り上げて新しく襲って来た。
彼らは精紡機の上から、格闘する人の頭の上へ、飛び降りた。木管が、なげつけられる人の中を、飛び廻った。ハンク・メーターのガラスの破片が、飛散しながら、裸体の肉塊へつき刺さった。打ち合うラップボードの音響と叫喚に攻め寄せられて、次第に反共産派の工人達は崩れて来た。
高重は電話室へ馳け込むと、工部局の警官隊へ今一隊の増員を要求した。彼は引き返すと、急に消えていた工場内の電灯が明るくなった。瞬間、混乱した群衆は、停止した。と、再び、怒濤のような喚声が、張り上った。高重は、まだ侵入されぬローラの櫓を楯にとると、頭の上で唸る礫を防ぎながら、叫び出した。
「警官隊だ。ふん張れ、機関銃だ。」
しかし、それと同時に、周囲の窓ガラスが爆音を立てて崩壊した。と、その黒々とした巨大な穴の中から、一団の新しい群衆が、泡のように噴き上った。彼らは見る間に機械の上へ飛び上がると、礫や石灰を機械の間へ投げ込んだ。それに続いて、彼らの後から陸続として飛び上がる群衆は、間もなく機械の上で盛り上った。彼らは破壊する目的物がなくなると、社員目がけて雪崩れて来た。
反共派の工人達はこの団々と膨脹して来る群衆の勢力に、巻き込まれた。彼らは群衆と一つになると、新らしく群衆の勢力に変りながら、逆に××社員を襲い出した。××社員は、今はいかなる抵抗も無駄であった。彼らは印度人の警官隊と一団になりながら、群衆に追いつめられて庭へ出た。すると、行手の西方の門から、また一団の工人の群れが、襲って来た。彼らの押し詰った団塊の肩は、見る間に塀を突き崩した。と、その倒れた塀の背後から、兇器を振り上げた新しい群衆が、忽然として現れた。彼らの怒った口は、鬨の声を張り上げると、××社員に向って肉迫した。腹背に敵を受けた社員達は、最早や動くことが出来なかった。高重は仲間と共に××××を群衆に差し向けた。
――今は最後だ。
彼の引金にかかった理性の際限が、群衆と一緒に、バネのように伸縮した。と、その先端へ、乱れた蓬髪の海が、速力を加えて殺到した。同時に、印度人の警官隊から銃が鳴った。続いて高重達の一団から××××が、――群衆の先端の一角から、叫びが上った。すると、その一部は翼を折られたように、へたばった。彼等は引き返そうとした。と、後方の押し出す群れと、衝突した。彼らは円弧を描いた二つの黒い潮流となって、高重の眼前で動乱した。方向を失った背中の波と顔の波とが、廻り始めた。逃げる頭が塊った胴の中へ、潜り込んだ。倒れた塀に躓いて人が倒れると、その上に盛り上って倒れた人垣が、暫く流動する人波の中で、黒々と停って動かなかった。
C 参木はお杉が習い覚えた春婦の習慣を、自分に押し隠そうと努めているのを見ると、それに対して、客のようになり下ろうとした自分の心のいまわしさに胸が冷めた。しかし、あんなにも自分を愛してくれたお杉、その結果がこんなにも深く泥の中へ落ち込んでしまったお杉、そのお杉に暗がりの中で今逢って、ひと思いに強く抱きかかえてやることも出来ないということは、何という良心のいたずらであろう。前にはお杉を、もしや春婦に落すようなことがあってはならぬと思って抱くこともひかえていたのに、それに今度はお杉が春婦に落ってしまっていることのために、抱きかかえてやることも出来ぬとは。――
「お杉さん、マッチはないか。一ぺんお杉さんの顔が見たいものだね。良かろう。」
「いや。」とお杉は.云った。
「しかし、長い間別れていたんじゃないか。こんなに顔も見ずに暗がりの中で饒舌っていたんじゃ、まるで幽霊と話しているみたいで気味が悪いよ。」
「だって、あたし、こんなになってしまっているとこ、あなたに今頃見られるのいやだわ。」
勿論そうであろうとは分っていたが、そんなに直接お杉から口に出して云われると、参木はきびしく胸の締って来るのを感じた。
「いいじゃないか、あんたと別れた夜は、あれは僕も銀行を首になるし、君もお柳のとこを切られた日だったが、男はともかく女は首になっちゃ、どうしようもないからね。」
しかし、参木はそんなにお杉に優しげな言葉を云いながらも、ともすると、まだ物欲しげにごそごそお杉の方へ動きたがる自身の身体を感じると、もうひと思いにお杉を暗の中に葬って、このまま眠ってしまおうと努力した。
「参木さん、あなたお柳さんにお逢いになって。」
「いや、逢わない。あの夜あんたのことで喧嘩してから一度もだ。」
「そう。あの夜はお神さん、それやあたしにひどいことを云ったのよ。」
「どんなことだ?」
「いやだわ、あんなこと。」
嫉妬にのぼせたお柳のことなら、定めて口にも云えないことを云ったのであろうと参木は思った。あのときは、風呂場ヘマッサージに来たお柳をつかまえて、戯れにお杉を愛していることを、自分はほのめかしてやったのだった。すると、お柳はお杉を引き摺り出して来て自分の足もとへぶつけたのだ。それから、自分はお杉に代ってお柳に詫びた。すると、ますますお柳は怒ってお杉の首を切ったのだ。ああ、しかし総てがみんな戯れからだと参木は思った。それに自分はお杉のことは忘れてしまって、いつの間にか尽く秋蘭に心を奪われてしまっていたのである。しかし、今は彼は、だんだんお杉が身内の中で前のように暖まって来るのを感じると心も自然に軽く踊って来た。
「お杉さん、もう僕は眠ってしまうよ。今日は疲れてもうものも云えないからね。その代り、明日からこのまま居候をさせて貰うかもしれないが、いいかねあんたは?」
「ええ、お好なまでここにいてね。その代り、汚いことは汚いわ。明日になって明るくなればみんな分ることだけど。」
「汚いのは僕はちっともかまわないんだが、もうここから動くのは、だんだんいやになって来た。迷惑なら迷惑だと今の中に云ってくれたまえ。」
「いいえ、あたしはちっともかまわないわ。だけど、ここは参木さんなんか、いらっしゃれるところじゃないのよ。」
参木は自分のお杉に云ったことが、直ぐそのまま明日から事実になるものとは思わなかった。だが、事実になればなったで、もうそれもかまわないと思うと、彼は云った。
「しかし、一人でいるより、今頃こんな露路みたいな中じゃ、二人でいる方が気丈夫だろう。それとも、お杉さんが僕の家へ来ているか、どっちにしたってかまわないぜ。」
参木は何とお杉が返事をするであろうと思って待っていると、彼女は黙ったまま、またしくしく暗がりの中で泣き始めた。参木はお杉がお柳の家で初めてそのように泣いたときも、いま自分が云ったと同様な言葉を云ってお杉を慰めたのを思い出した。しかも、自分の言葉を信じていく度に、お杉はだんだん不幸に落ち込んでいったのだ。
しかし、彼がお杉を救う手段としては、あのときも、その言葉以外にはないのであった。生活の出来なくなった女を生活の出来るまで家においてやることが悪いのなら、それなら自分は何をして良いのであろう。ただ一つ自分の悪かったのは、お杉を抱きかかえてやらなかったことだけだ。だが、それはたしかに、悪事のうちでも一番悪いことにちがいなかったと参木は思った。
抱くということ、――それは全くどんなに悪かろうとも、お杉にとっては抱かぬよりは良いことだったのだ。それにしても、まアお杉を抱くようになるまでには、自分はどれだけ沢山なことを考えたであろう。
しかも、それら数々の考えは、尽く、どうすればお杉を、まだこれ以上虐め続けていかれるであろうかと考えていたのと、どこ一つ違ったところはないのであった。
「お杉さん、こちらへ来なさい。あんたはもう何も考えちゃ駄目だ。考えずにここへ来なさい。」
参木はお杉の方へ手を延ばした。すると、お杉の身体は、ぽってりと重々しく彼の両手の上へ倒れて来た。
解 説 「上海」は、横光利一とって初めての連載小説であり、初めての長編小説である。昭和三年十一月から昭和六年十一月まで断続的ながら七回にわたって『改造』に発表された。昭和七年七月改造社から単行本として発行された後、かなりの改稿がなされ、昭和十年三月、書物展望社より決定版が再刊された。
東洋随一の国際都市で十年間を過ごしている参木は銀行の専務の不正行為を隠す仕事をしている。しかも、死に魅入られ、日に一度は死ぬ方法を考えている。参木の友人である甲谷はシンガポールの材木会社に勤務し、将来は為替仲買人となることを夢みている。お杉は参木のちょっとした戯れから勤めていたトルコ風呂を首にされて、上海の巷に放り出されてしまう。参木もまた、専務にたてつき、ついに辞職して巷の人となる。職を失って拠るところを失った男は乞食に、女は売春婦になるよりほかない〔A〕。甲谷は意中の人である宮子のいるダンスホールで、アジア主義者の山口から「死人拾い」という奇妙な商売に心動かされる。また、そのダンスホールに出入りしている共産党の女性闘士、芳秋蘭の美貌にうたれる。お杉の前から姿をくらました参木は山口から預けられた亡命ロシア人女性オルガを持てあます。その後、参木は甲谷の兄高重に救われ、刻一刻と変化する国際綿花市場の仕事に再就職する。東洋紡績会社に勤める高重は夜業の見回りの途中、労働者を組織し、ストライキの機運を盛り上げている芳秋蘭の存在を参木に教える。ついに暴動による破壊が始まり、その激化のなかで傷つきかけた芳秋蘭を助ける。部屋まで送り届けた参木は芳秋蘭の論理と弁舌に圧倒され、かすかな恋の芽生えを感じる。革命の都市化しつつあるなか、ストライキの群れに向かって発砲された高重の銃弾が一人の死者をだすと、対日運動は全市に拡大する〔B〕。そして数万に膨れ上がった反帝運動の群集に英国官憲の銃弾が浴びせられて、動乱は最高潮に達する。ついに、甲谷は山口の居候の身となり、参木も今は、乞食同然となる。参木は荒廃した上海を彷徨するうちに、売春婦となったお杉の許に辿り着き、お杉を闇の中で初めて抱き寄せる〔C〕。
横光が上海に渡ったのは芥川龍之介の勧めによる。後に芥川の死を受けて、自らその系譜の一翼を担おうとする横光にとって、芥川による上海への勧めというのは「上海」という作品を考察する上で無視できない。この勧めが芥川のどういう意図によるものなのかはともかく、横光が上海行を試みたのは芥川の「上海游記」の問答にみられる、当時における西洋と東洋の課題を考察する材料があると認識した結果であろう。この小説に描かれた〈五・三十事件〉は世界史的にも中国民衆の反帝国主義運動の絶頂と位置付けられているものである。
改造社の〈上海紀行を書け〉との依頼に対して、「私は上海のいろいろの面白さを上海ともどこともせずに、ぽっかり東洋の塵埃溜にして了つて一つさう云う不思議な都会を書いてみたいのです。」として「ぢくぢくかかつて長編にしたい」と主張するほど、帰国後すでに長編の構想が沸々として湧き上っていたと思われる。横光が「上海と名づけられた長編の題をきらっていた」という証言は、現実の上海ではなく、あくまでその上海を捨象した〈東洋の塵埃溜〉という〈不思議な都会〉に強く拘っていたことを示すものである。
異民族清に支配され、しかも体制が弛みかけていた中国の民衆、特に上海の民衆は領土意識を持っていなかったこと(田島英一「上海」PHP新書)など、当時の日本人の常識に反する事実が明らかになってきている。今日、このような歴史的背景を抜きにして作品「上海」を読んでみると、欲望と策謀と思想の渦巻く〈東洋の塵埃溜〉という〈不思議な都会〉の様態を描き切っていると言わなければならない。冒頭の章ですでに描かれているように、街には売春婦がたち、乞食があてもなくうろつき、本国では全く生活の方法がない種々雑多な人間が寄り合い、まさしく物も人も〈塵埃溜〉のように暮らしている。この〈東洋の塵埃溜〉という〈不思議な都会〉に放り込まれているのが参木である。もちろん、参木を取り巻く人々の群像は多彩で、参木一人に絞り込むことはできないものの、最終章で参木が幾多の遍歴を経ながらお杉の懐に転がり込むことの意味は大きい。
参木が最後まで手離さないものは人間主義的な倫理観である。アジア主義の山口やコミュニストの芳秋蘭にしても、甲谷や高重のような合理主義者にしても、参木の人間主義を引き立たせる役目を果たしている。意に反して、お杉という一人の女性を不幸に陥れることになる人間主義的な「良心」は、何もかも腐敗させていく〈東洋の塵埃溜〉の中で唯一腐敗を免れているものである。この人間主義を生み出しているのは本国の母親に対する思いである。「故郷では母親は今頃は」という形で心の片隅に絶えず揺曳している母の存在が「俺の身体は領土なんだ。この俺の身体もお杉の身体も。」という領土意識の基盤になっているのはいうまでもない。流民化し、〈塵埃溜〉に埋没していけばいくほど、領土意識、愛国意識をより先鋭化していくのは、その意識によってしか、〈塵埃溜〉の中では参木の主体性を支えることができないからである。「もうこの支那で、何か希望らしい希望か理想らしい理想を持つとしたら、それは何も持たないと云うことが、一番いいんじゃないか」という逆説はそれこそ身一つしか頼るべきものがないということを意味している。お杉の日本的〈身体〉に回帰するのは、〈身体〉こそ〈領土〉だという認識を手放さないものの当然の帰結である。「上海」は何もかも呑み込んでしまう〈塵埃溜〉の、何も希望を見いだせない状況の中でいかに行くべきかの課題を追求した小説である。「俺が生きているのは、孝行なのだ。俺の身体は親の身体だ、親の。」という認識を持ち続ける限り、みずからの意志で〈身体〉を処理することができない。そのことが脆い頼りないと評されるゆえんである。しかし、この認識を梃子に自己の「良心」を見失うことなく生きるぬく参木の姿には一つの生の原型を見ることができる。
【参考文献】
栗坪良樹編「横光利一」(『鑑賞日本現代文学14』角川書店 昭和五十六年九月)
菅野昭正「解説 さまよう《上海の日本人》」(横光利一『上海』講談社文芸文庫 一九九一年九月)
『蘭陵王』論
-三島由紀夫の最後の短編小説-
初出 「方位」13号 三章文庫 1990.8
初めに
昭和四十四年十一月に『群像』紙上に発表された「蘭陵王」は、翌々年五月に刊行された短編小説集『蘭陵王』の題名を飾ることになった作品である。三島由紀夫の自決よりほぼ一年前に書かれた最後の短編小説である。このことから、<死>への予兆を示した作品として注目されている。
夥しい数にのぼる創作活動のうちで百五十編に垂んとする短編小説を書き残している三島は、特に「その巧みな造形力とあいまって,極めて短編小説的なもの」(田中美代子氏)と評されるように短編小説の名手であると言うことができる。
それほど多くない「蘭陵王」評の中でとりわけ印象に残る文章はどれも、その特異の<文体>の魅力に触れている。例えば、安岡章太郎は『毎日新聞』(昭44・10・31) の「文芸時評」(この小説の論評では最初のものであるとともに、この小説そのものを論じたものでは唯一のものである)の中で、「蘭陵王」など耳にしたがないのにそれが記憶に残る不思議さを挙げて、「たしかにこれは小説であり、おそらく見事な出来映えなのである」と評価している。また同様に、三好行雄氏は「金閣寺」を論じる過程で、「蘭陵王」の文体に触れて、「ことばはすべての属性を剥離されて、意味のない意味にまで純化し、文体は音楽的で、透明で、たえず流れつづけ、感動や情念の沈澱をこばみつづける。ものが実体として存在しない、いはばものを影によって表象する純粋表現の世界、とでも呼べばよいのであろうか」と指摘している。両者に共通して言えることは、横笛の名手であるSが名曲だとされる<蘭陵王>を吹く場面の描写力のすばらしさに言及していることである。実際に「蘭陵王」を手にしてみても、初期の作品に辟易させられた修飾過多の文体はみられず、虚飾を剥ぎとった簡素な描写に終始していて、安岡の言うようにリアリティにあふれている。それを三好行雄氏の言うように<純粋表現>の極致を示していると言えばいえる。このようなことが可能になった背景には、「私はだんだんと小説のさりげない文体、さらには、精力的な雑駁さにあふれた文体というものが好きになった」(「裸体と衣装」) という文体に対する好悪の推移によって、あたかも三十歳代から始めた肉体改造の試みのように文体変革の努力を経て、ついに「すでに私は私の文体を私の筋肉にふさわしいものにしていたが、それによって文体は撓やかに自在になり、脂肪に類する装飾は剥ぎ取られ、すなわち現代文明の裡では無用であっても、威信と美観のためには依然として必要な、そうような装飾は丹念に維持されていた」(「太陽と鉄」)という強い自負を有するに至った事情が裏書きされているとみてよい。すなわち、読むものの目を捉えてやまない「蘭陵王」の文体は、三島が自分の文体をかなり<自在>に使いこなせるまでに上達し、自分なりの文体を確立していることの証左になっている訳である。その意味では、この小説の文体が一年後に生涯を終える三島において一つの頂点を示していたと言える。
そのことと関連して言えることは、「三島由紀夫語彙辞典」の類いに取り上げられている<仮面><集団><中世><能>等々、その他に本論を考察中に浮かび上がってきた<みやび><政治><行動><制服><肉体>等々の三島のキーワードとされる言葉が数多く拾い出せることからも、わずか二十数枚にすぎない短編小説ながら、三島由紀夫文学の一つの集大成的な作品であると言えなくもない。思うに、多作な三島がこの小説以後一編の短編小説も書かなった事実からしても、「蘭陵王」で短編小説におけるモチーフをすべて出し尽くしたという感を持ったのではなかろうか。
「蘭陵王」の謎
一 構成について
「蘭陵王」は形式段落的に見れば5つの部分に厳然と区切られている。しかも、舞台となる場面では昼の演習の模様と夜の憩いの情景との二つに明確に分割することができる。つまり、簡素でしっかりしたこの作家ならではの構成意識が窺える。従って、5つの部分は次のように説明できないだろうか。一と五の部分は両方の箇所に出てくる<蛇>の記述等によって首尾結構が整えられていて、前者は話題の提出の場面であたり、後者は話題終息の場面にあたると考えれば、一の部分は<起>の章であり、五の部分は<結>の章である。そして、二の部分は一の場面で描かれた演習の疲れを癒すというかたちで引き継がれて、三・四での<蘭陵王>=横笛の音色という中心場面に橋渡しする役目を持った部分、すなわち、<承>の章である。また、激しい戦闘訓練と風流な横笛との取り合わせにいささか唐突な感さえ与えることになる三と四の部分はさしずめ<転>の章にあたるだろう。この章は博識と描写力という作者の手腕がともに問われたところである。
このように考えるならば、この小説の主題を追究するに当たって重要だと思われるのは、<結>の章に相当する五の部分である。この章の重要性は、作者自身がみずから小説作法について語った有名なエッセイ「私の小説の方法」の中で「私にとっては、小説の腹案がうかんだとき、短編では最後の場面、長編では最も重要な場面のイメージがはっきりうかぶまで、待つことが大切である。そしてそのイメージが、ただの場面としてではなく、はっきりした強力な意味を帯びて来ることが必要なのだ。(中略)そこで主題が決定されて来るのだ」(黒点・筆者) と述べているところからでも理解できる。従って、結尾の「しばらくしてSは卒然と私に、もしあなたの考える敵と自分の考える敵とが違っているとわかったら、そのときは戦わない、と言った」という一文には作者の或るはっきりした強力な意味=<主題>がこめられているはずである。このことは「蘭陵王」を考察する上で強調してもしたりないほどである。
従って、この論文では、結尾の一文が意味するものが何かをさぐることによって、この短編小説「蘭陵王」の主題を考えてみたい。また、その過程で浮かび上がってきた諸々の事項も合わせて論じようと思う。
二 「蘭陵王」の結尾一文
ところが、結尾の一文、特にその中で使われている<敵>云々という箇所は一筋縄では行かぬ厄介な問題をかかえている。このことは、安岡が既出の文章のなかで、この<敵>の用語にひどくこだわっていて、「問題は、この《敵》という言葉のなまなましさにある」と述べ、吉行淳之介もまたある対談(『群像』座談会・1988・5)の中で、より直截的に「『私の考えていることと違ったら許しませんよ』と笛を吹く青年のいう意味が、僕にはちょっとわからないところがある。三島由紀夫には、僕はいつもわからないところがある。けれども、最後の作品だから、そういう意味で」とまで言い切っていることからも補足できる。
そこで、結尾一文を理解する手立てとして二通りの方法を取った。一つは、何よりもまずこの小説の内容を忠実に辿るという文脈からのアプローチである。これが最も妥当な方法だろう。もう一つは、文脈の読み取りを基本に据えながら、それでも捉えられなかったものを作家の思想から導き出す方法である。
三 アプローチその一
<起>の章において特に気が付くのは、<S>という人物の紹介のしかたである。<京都>の大学に在学中のSが<烏帽子狩衣>の似合いそうな顔立ちをしていて、さらに<横笛>を能くする青年であること。あいびきの相手に横笛の音で自分の所在を知らせたという逸話の持ち主であること。読者の立場でみると一見気障にみえるSという青年が徹頭徹尾<みやび>を備えた貴族的とでもいえそうな人物として描かれていることは明らかである。これこそ、貴族は<みやび>の象徴的な存在だと考えている三島の思想の反映であることはまちがいない。しかも、そういうSは昼間の行軍及び攻撃訓練では小隊長を務めるほどの<兵士>である。このような<S>の造形において特徴的なのは、いわゆる<文武両道>を兼ね備えていることである。そして、敵と生死を攻めぎ合いを模した戦闘訓練といい、「幽暗な境」へ誘う横笛の音といい、<死>の雰囲気が漂っていて、またこの青年が横笛を習う動機を問われて、能の<清経>のように横笛を吹きながら最後を遂げたいからだと答えたという記述に接すれば、Sという青年がまさしく<文武両道>の実践の果てに死を置くという思想を唱導していた三島由紀夫にとって最も望ましい若者像と一致する
ことになることは言うまでもない。その意味で、「現代の青年と一口に言うけれども、青年は実にさまざまである」という文句はいわくありげな言葉である。というのは、<S>という人物は<現代の青年>の諸相から抽出された一つの典型として描き出されているとみることができるからである。
ところで、<文>と<武>という対立概念の提出は、<起>の章でのSの造形にとどまらず、<承><転>の章までの文章のなかでも<文>や<武>の概念に置き換え可能な言葉を至る所に見出だせる。例えば、「笛は武器とはちがった軽やかなしっとりした重みを指に伝えた」という<笛>と<武器>との対応、「激しい演習のすんだあとの夜こそ、横笛を吹くのにふさわしい」という昼の<演習>と夜の<横笛>との対照等々がそれである。さらに注意してみると、前文のように同じ比重か、後文のように補弼する形かの関係で成り立っていることがわかる。<蘭陵王>の故事についても事情は同じことで、「優にやさしい」素面を「獰猛な仮面」で隠して戦場に臨んだ北斉の王の<武勇>伝である。<優美さ>と<獰猛さ>とは仮面を媒介として一人の人間蘭陵王のなかでは一体なのである。このように、<文>と<武>の二項の概念はいずれも対比し対立するものとして描かれてはいず、並立し補弼する関係になっている。この二項並立とでも言っていいような関係の記述の上に立ち昇ってくるのは、まさしく<文武両道>の概念であることは注意すべきである。この概念こそが、この「蘭陵王」という小説のキーワードであることは理解されよう。このことは、くしくも三好行雄氏が先の論文のなかで「嫋々とひびいた横笛の音色に、武士と優雅の伝統が一致した幸福な一瞬が現前する」世界において<文>が<武>に呑み込まれてしまった事情をこの「蘭陵王」にみていることと思い合わされて、当の論文の善し悪しを別にして言えば、けだし卓見である。 <承>の章における「何一つ装飾のない」部屋という舞台の設定は、戦後の小市民的な繁栄を忌避した三島の豊饒さに倦み疲れた現代に対する明瞭なアンチテーゼとして受け取ることができる。それ故に、虚飾を剥ぎ取った反時代的な空間のなかで希に見る<文>と<武>との触れ合いの様子が浮き彫りにされているとみることができる。そのような二項概念はまた、「非常にすぐれた指揮能力とは、勇猛であると供に、おそらく優美なものであろう」という記述や「蘭陵王」の容貌における「獰猛な仮面」に隠された「優にやさしい」「やさしい美しい」という形容、さらに言えば「錦の袋」から取り出した横笛の「重みそのものに或る優美があった」等々の記述の例のように、<優美>の概念によって装飾されている。そして、「稲妻」の閃きは、これらの記述との相乗効果によって<文>と<武>のやすらう夜の<優美>な舞台作りに大きく寄与している。
<転>の章における「昼間見た撫子や露草や薊の花は、どんな色合で浮み上がるかを思いみた」を初めとする文章の中で、<昼>の情景がしばしば思い浮かべられて、<承>の章におけるように肉体の疲労からのよみがえりに絶対な信頼をおいている。このような記述によれば、その「すがすがしさ」が昼間の激しい戦闘訓練の結果得られたものであるところから、夜の<文>は昼の<武>の上に立って存在していることを意味している。そのような状況のなかで、<武>の人Sの手になる横笛は、<文>の音色を千変万化させながら吹き流されるのである。
このようにみてくると、<文武両道>に秀でた登場人物が質素にしつらえた舞台の上で横笛を吹き鳴らしている情景が彷彿してくる。ここに、劇作家としての三島の手腕が発揮されているとみていい。その意味で、この「蘭陵王」は二幕劇じたての構成になっているといえる。そういう簡素な構成だからこそ、「激しい演習のすんだあとの夜こそ、横笛を聞くのにふさわしい」という思いが<転>の章に置かれ、「蘭陵王を聞くのにふさわしい夜だった」という感想が<結>の章に置かれて強調されていることでも明らかであるが、横笛の名曲を聞く場面の<ふさわしい>状況が否応なく読者に印象づけられることになる。とすると、当時エッセイ等々でしきりに唱えていた<文武両道>の理想形態を実際の体験の側から提示しようとしたのがこの「蘭陵王」であろう。
従って、第四段落に至るまでが<文武両道>の理想像の構築に当てられていたとみるべきで、その叙述を受けた結の章の冒頭が「『蘭陵王』が終わったとき、私も四人の学生も等しく深い感銘を受けて、しばらくは言葉もなかった」という文章で始まるのは充分予想されることである。これは、横笛の音のすばらしさの強調ということ以上に、何よりもこういう場を持ち得る「私どものやっている盾の会」という私兵集団のありがたさと会員相互による暗黙の精神的なきづなの自己確認がアピールされていると勘ぐりたくなるほどである。さらに続く「すべてがこの横笛を聴き、『蘭陵王』を聞くのにふさわしい夜だった、と一人が言い、皆が同感した」という記述に至っては、横笛を媒介として<文武両道>の実践という雰囲気に完全に浸っていて、出来すぎといえば言えるほど「新入会員の卒業試験」の場として格好の教材となったであろうことは想像される。そこには新入会員を含めた会員同志の心の結合の様がこれ見よがしに強調されているといえよう。そのような雰囲気のなかで語られる横笛にまつわる話は文脈の流れに逆らうことがない。むしろ、<幽霊>の話題は芸術=<文>の奥深さの強調になり、戦闘訓練=<武>のむずかしさを話し合う場面と対応して、<文>と<武>との両立の困難さを提示するかたちになっている。 ところが、結尾一文のSの言葉は、安岡章太郎や吉行淳之介等が触れているようにいささか唐突の感がなきしもあらずという感じである。それは文脈に即してみると、端的には「卒然と」という表現に<私>の少なからぬ驚きを持った感情のさやぎが感じ取れる。また、これまでの文脈を踏まえて考えてみても、私にしてみれば、Sは言わば自分の分身のように親近感を覚えており、精神的紐帯のエリア内にすっぽり収まっている人物として考えているのである。そういう確信は、特に「戦わない」というように一緒に行動しないこともありえると言ったSの言葉によって揺らぐことになるはずである。少なくともSの言い方は同志的結合を弱めこそすれ、強めはしないと思われる。従って、私はSとの微妙な乖離に直面したことになる。
ここで注意したいのは、三島由紀夫という作者と作中人物、ここでは<私>や<S>との位置を明かにしなければならないということである。というのは、この小説が<虚構>か否かという問題とからまっていて、現在取り上げている結尾一文の意味合いも微妙に変わらざる得なくなるからである。このことについては、すでに安岡章太郎が先述した文章のなかで「この一人称の文章は小説か、感想文か」という自らの疑問に対して「はっきり小説だと考えられる」と断言している。これはしかし、実際の出来事の感想という部分の疑いを持ちながら、<はっきり>と決断を迫られる中で<小説>、つまり創作だとしなければならなかった苦渋が滲み出ている。さらに、それを受けた形ではあるが、田中美代子氏が『鍵の掛かる部屋』解説(新朝社文庫) において「ここに出てくる『私』は、作者自身にちがいないし、営舎での泊りの一夜、一人の学生が横笛を吹き、四人の学生とともに耳を傾けた、という『事実』はあったにちがいないだろう。しかし、この事実をめぐるくさぐさの感慨や体験は、すべて作者一個の内的世界のものである」と述べていることも、<事実>を踏まえた上での<虚構化>という線上での論及であり、体のいい説明であって、作者と登場人物との関係が明確にされていない。そこで、作者自身の言葉である「私が『私』というとき、それは厳密に私に帰納するような『私』ではなく、私から発せられた言葉のすべてが私の内面に還流するわけではなく、そこになにがしか、帰納したり還流したりすることのない残滓があって、それをこそ、私は『私』と呼ぶであろう」(「太陽と鉄」)という文章を参考にすべきであるが、自分の文章は全部が全部が本当のことを言っているわけではないぞと言わんばかりの口吻は理解できても、今考えている問題の解決につながるものではない。
であるならば、文章中の言葉を手掛かりにして、安藤武氏の労作『三島由紀夫研究年表』(西田書店・昭六三・四)のなかから探ってみるしかない。まず、第一段落の冒頭にある「盾の会」という名称を万葉集の防人の歌より取り出して正式に用いるのは、昭和四三年一一月三日(日)のことであるので、これ以後の体験入隊が題材になっているとみるべきである。それに、「八月二十日」という記述等によって真夏の出来事であることがわかる。従って、これらにふさわしい事実を調べてみると、その翌年の九月、御殿場陸上自衛隊滝ヶ原分屯地に体験入隊している。これが「蘭陵王」の発表の二ヵ月前のことであるということもあり、夏という季節に体験入隊したという事実が抜き出せるのはこれ以外に見出だせないこともあって、最右翼に挙げられる。「八月二十日」と明記していることは何らかの意図があったのだろうか。ただ<八月>という月は類推になるが、「炎天」のなかでの戦闘訓練の厳しさの強調になり、それと打って変わって夜の憩いの一時のすばらしさの提示に好都合であること、或いは旧暦で言えば季節は秋であり、横笛を聞くのにふさわしいときということで選ばれたのであろうか。日付を特定した理由は今のところわからない。いずれにしろ、これらのことから理解できるように、この「蘭陵王」は<事実性>の強い小説である。現実と文章中の出来事とは同一視できないものの、フクション性豊かなこの作家の唯一の私小説的作品であることは注目に値するであろう。 これらのことを踏まえて言えば、<私>はほぼ作者と等身大であって、多少の誇張はあっても作者との間の径庭はないということ、さらに<S>は作者にとって理想化されているが、<私>にとっても同じことであるといえることから、作者とは距離を置いた存在であるということである。ただし、Sは<文武両道>を実践しつつある作者の分身と見ることもできるが、それは結尾の一文を言わない前のことである。
さて、結尾一文について重要になってくるのは、私がSの言葉に対してどういう態度を取ったかという点である。これまでの文脈から言えば、少なくとも<容認>という態度は難しく、ちょっと驚いて<受け流す>か、或いは<拒否>の態度ぐらいは取ったかのいずれかになるだろう。ただ、三島の小説作法からすると、最後の短編小説であるだけに、この結尾の一文には多大な意味を込めて書いたにちがいない。だとすれば、<受け流す>態度は弱すぎるので、Sのもの言いに<拒否>させるくらいの決意はもっていただろう。しかし、それをはっきりさせるには、この小説がこの部分で終わって読者に判断させる体裁を取っているので、文章中からの読み取りは不可能である。余韻を残しながら、意味ありげに終わらせるところに三島のストーリテーラーとしての技巧が働いていると言えばいえる。
四 アプローチその二
本文から離れて「蘭陵王」を論じようとすれば、既出した対談のなかで、大岡昇平もそうであるが、特に大江建三郎が「この青年が持っているイデオロギー的な特質は、最後に、私はあなたと意見が違うから闘わない、と言うところに表現されるんですけれども」という言い方で触れて、この小説を<イデオロギー>的に捉えたように、三島由紀夫の政治意識からのアプローチが示唆を与えてくれるように思われるが、その他の状況からのアプローチが必要であれば適宜行っていきたい。
三島の政治意識は晩年矯激に現れこそすれ、現実的な政治性とは無縁だったと言わねばならない。「思想、あるいはイデオロギーは相対的であり、情念、或いは心情こそは絶対的である」という信念を固く保持していた三島は、その右翼的言動がいかに政治的あったとしても、現実的な政治意識の相対性を軽蔑し尽くした果てに捉えられた心情面での右翼的政治思想の絶対性に己れを賭けていたことはつとに有名である。このことは、同志として同じ思想を抱えていても、状況次第ではすぐに相対化されてしまう現実の政治的な<敵>・<味方>という概念には重きを置いていないことを意味する。とすれば、「もしあなたが考える敵と自分の考える敵とが違っているとわかったら」と事もなげに言い放つSの言葉に対して、三島、すなわち私が現実の政治的状況論の網に掛かってしまっているSの立場に現実臭さ、平たく言えば<現代青年>の一面であるクールさを敏感に感じ取るとともに<拒否>に近い感情を持ったであろうことは想像できる。けだし、安岡章太郎がこの最後の一文に注目して、「問題は、この《敵》という言葉のなまなましさにある。何らかの手段で抽象化しないと、この言葉で私の中にもシコリの出来たナマな感情が動いてくる。現実の語感で引き起こされたこの感情は、この文章全体を小説から現実に変えて受取ってしまうことにもなる」と述べているのは作家ならではの鋭い指摘だったと言わなければならない。
端的に言って、「蘭陵王」という小説は結尾のわずか一文によって<文武両道>の理想郷から覚めてより<現実>的になるのである。このときの<S>がこの小説の発表される二ヶ月前(九月初旬)に相次いで起こった「盾の会」脱会事件、つまり『論争ジャーナル』の共同創設者だった中辻が他の数名の会員とともに脱会した後、その一週間後には右腕的存在であった持丸博(早大生=「日学連」と呼ばれた右翼的学生組織の中心人物・昭和四三年三月1日から三十日までに同じく滝ヶ原分屯地にて行った体験入隊の学生隊長)が脱会したことを背負っていることは充分ありうる。このことは、結尾一文が常識的でクールなS青年の提出ということ以上の意味を持つものであることを示している。ここにはつまり、三島由紀夫なりの望ましい<現代の青年>像を提出しながらも、それに終始しなかった、否、出来なかったと言うべき現実認識が表現されている。この現実認識こそ、シニカルな読者におめでたい狂信集団の自己顕示欲を満たそうとした作品だと一蹴されるを少しく防いでいるということができる。
或いは、次のように考えてもいい。矢代静一氏が三島の青年時代を回想して「歌舞伎座の天井桟敷の一幕見で、突然、『こうして友達となったからには、一生の味方か一生の敵かどっちかだよ』と、いまにして思えば無邪気な宣言だが、私をこわがらせた彼」とさりげなく記した文章(「三島と太宰」) には、<敵>か<味方>かの問題が友情のレベルではいかに重要であったかを窺わせる。とすると、Sが格好よく言ったつもりの<敵>云々の語には重大な意味が込められていると見るべきである。その点からも、このようなSの言葉を最後の一文に置いたのは至極当然なことである。<敵>という語が他の言葉とからまる言葉として想起するのは、青少年時代の三島が私淑した『文芸文化』中心人物蓮田善明等によってさかんに称揚された『みやびが敵を打つ』という言葉である。この言葉を参考にして、この小説における<敵>の語の意味するものを言えば、<みやび>が打倒すべき<敵>が「盾の会」の内部においてもすでに相対化してしまっていることである。それは、本文中の三箇所にわたって出でくる<敵>が初めの二箇所のように共通の対立概念として存在するうちはまだしも、Sの言葉に代表されるように個々人において<敵>の中身を検証してみるとその差異を呈してくるという事情からも類推できる。
<敵>という対象の相違が甚だしく現れるのは、集団の中では裏切りという形である。三島の短編小説「剣」も、それに近似している長編小説「奔馬」もまた、最も信頼すべき者たちの裏切りによってクライマックスを迎える内容である。こうした内容は、特に「奔馬」と時を同じくする作品「蘭陵王」に影を落としているとみるべきであって、裏切りのため獄中に繋がれた「奔馬」の主人公の「人間は或る程度以上に心を近づけ、心を一にしようとすると、そのつかのまの幻想のあとには必ず反作用が起って、反作用は単なる離反にとどまらず、すべてを瓦解へみちびく裏切りを呼ばずには措かぬのだろうか?」という述懐は、現実の脱会者の影を引きずっていると思われるSの行く末に感じたであろう苦い思いと重ね合わせられて、実に痛ましい。このようなことを踏まえると、結尾の一文には、<心を一にしようとする>ことを拒む『現代』という時代への、三島のある種の冷笑を含んだ諦念が潜んでいるといえる。そのことは、「何一つ装飾のない」部屋の設定や私の「質素な生活」を尊ぶ態度といい、<文武>に秀でだSの造型といい、どれをとっても<反時代>的な刻印が色濃く刻みつけられていることからも理解できる。
結びに
ここで、これまでのことをまとめて述べてみたい。この「蘭陵王」は、三島由紀夫にとっての最後の短編小説であることの意義は大きい。そうであるが故に、作家としての特質が十全に発揮されながら、晩年の中心思想である<文武両道>の理想形態が描き上げられているといえる。そして、その中に忍びこむ<現実>の実相が指し示されて、<現代>という時代の一断面を切り取ってみせた作品だと考えられる。
ともあれ、結尾一文のSの言葉から遠ざかり、<文武両道>の世界を強調すればするほど、<文>も<武>も極めて観念的な美の世界に閉じこもることになる。橋本文三が三島の「文化防衛論」に対して<観念的な政治論>と極言したことと似たところがあるけれど、この「蘭陵王」が実際の体験に基づいた<文武両道>の姿を伝えているものの、結尾一文によってかろうじて現実味を獲得した事実からしても、S青年の<横笛>をめぐる美的観念のストーリーという印象を払拭することはできない。あのような自決事件も、表層は極めて政治的事件の様相を呈しているが、当の本人にとっては美的観念の上に構築された<文武両道>の実践化であったと思えてならない。こういう点で、「文が武に敗れた、その果てに具現したひとつの言語世界」(前掲書)をこの「蘭陵王」にもとめる三好行雄氏の見解には付いていけない。
三島由紀夫においては、美的世界は依然として不滅である。
註1 田中美代子氏は鍵のかかる部屋」(「新潮社文庫」昭55・2)の解説文で「やがてくる死の予感に息をひそめている」と述べている。松本鶴雄氏はまた「三島由紀夫作品論事典」(国文学『三島由紀夫とは何だったか』56年7月号)の「蘭陵王」梗概で「自決一年前の作品のせいか、全体の色調に静寂と哀調がただよい、その底に死への近親感のようなものが流れている」と指摘している。
註2 三好行雄「<認識と行為>をめぐって」別冊国文学NO・19「三島由紀夫必携」
註3 <制服>=「素朴にして華美」なる服装として彼に賛美されている(真銅)、<行動>=『太陽と鉄』 で文(認識)武(行動)両道にいたった軌跡を明らかにした(武田)、<肉体>=三島の肉体は、その筋肉の造形美、感覚、存在原理、それらに基づいた「武」「行動」及び「悲劇」の思想の探求の場となり、その実践の核となる(釜田)等々、『国文学』「いま三島由紀夫を読む」学燈社・61年7月号より。
註4 「金閣寺」における対立概念もそうであったように、対立ないし矛盾する概念をそのまま提出するのではなく、表裏一体のものとして提出するところに三島の特色がある。不可能なものとして避けがちなそういう概念を統一することに全精力を傾けていたと思われる節がある。その点で、三島由紀夫は世界の全体性を己のものにすることに賭けていた人物だと言える。
註5 <能>を換骨奪胎した戯曲「近代能楽集」を出版している。劉建輝氏が註3の書のなかで『三島由紀夫作品集6』あとがきを引用しながら「三島において、能はまたたえずその文学に底流し、『能のもつメランコリー、その絢爛、その形式の完璧、その感情の節約は』彼の『芸術の理想』を完備する要素としても、おおいに働いていた」と述べていることは三島と<能>との関係の深さを説明していて参考になる。
註6 1989年9月30日(土)、熊本近代文学研究会「九月定例会」の発表の折、「作者はそういう面も視野に入れて描いているのではないか」というような意見を首藤基澄氏より受けたが、確かにそのとうりで、だからこそ、<現代の青年>のプラス・マイナス面を含めたかたちでの一典型として描いているのだと補強説明して置きたい。
註7 「批評と研究三島由紀夫」白川正芳編・芳賀書店・昭49・12。
註8 「重症者の凶器」(昭26)での、「私の同年代から強盗諸君の大多数が出ているところを私は誇りとする」という有名な文章や、「剣」(昭38)での、「国分次郎の生まれたのは、まことにへんな時代にだった」という記述等があるが、<時代>を射程に入れて創作していることは明らかである。
註9 『反時代的な芸術家』(昭23)では、「『新しい時間と新しい倫理』は芸術作品の中にしかありえないのである。しかも作品の中にあらわれた新しい人間像は、極めて正確な程度にまで到達された作者の原型の模写に他なら」ないと述べている。この文章からは、<反時代>的な姿勢が単なるポーズではなく、<倫理>的な様相を呈していることがわかる
註10 野口武彦編「三島由紀夫事典」(『三島由紀夫必携・別冊国文学NO19』)の「政治」の項に おける中井敏之氏の「右翼的心情の対象としての 『文化概念としての天皇』に向けて、三島が自己合一化をはかるとき、もはや『政治』は虚構世界の『政治』と化すほかはなっかたのである」という考えは、この結尾の私見に相通じるものがあるのでここに掲げて置きたい。
「『仕方がない』日本人をめぐって : 近代日本の文学と思想」所収(2010.9・南方新社)
「草枕」夏目漱石 そのⅡ
五 同化=非人情との関係
「写生」をするときに、最も重要になるのは、漱石も「写生文」(明治四十年一月)の中で「余の尤も要点だと考へるにも関らず誰も説き及んだ事のないのは作者の心的状態である」と述べている「心的状態」、つまり「心理的姿勢」(注5)、簡単に言えば「心構え」である。
恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だらう。しかし自身が其局に当れば利害のに捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目はんで仕舞ふ。従つてどこに詩があるか自身には解しかねる。
これがわかる為めには、わかる丈の余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げて居る。見たり読んだりする間丈は詩人である。[一]
すでに「草枕」の第一章の中で、「余裕のある第三者の地位」という言葉が出てきているにもかかわらず、この言葉に触れることはあっても、特に注目し、取り上げて論じられることはなかった。しかし、首藤氏は俳句実作者ならではの着眼点で、画工の「余裕のある第三者の地位」を「非人情」と同列に扱い、「漱石は人情の美を切り離して『第三者』の立場に置き、『詩境』を味わおうとする」と的確に捉えている。私も子規のいうところの「天然(自然)の風光を探る」際の「写生」の「心的状態」を「『第三者』の立場」に置くことである(注5)と思っている。「草枕」で決まって問題視される「非人情」は「第三者」の「心的状態」=心持ちになることで、「不人情」とは似ても非なるものである。それは、「草枕」の中で、「非人情」と「不人情」とを使い分けられていることからもわかる。
非人情と名くべきもの、即ち道徳抜きの文学にして、此種の文学には道徳的分子入り込み来る余地なきなり。(中略)由来東洋の文学には此(筆者注=非人情的な)趣味深きが如く、吾が国俳文学にありて殊に然りとす。 「文学論」(前掲書)
漱石が「非人情」からなる「国俳文学」を「道徳抜きの文学」と断言していることと、現代の俳句のノウハウ本がいずれも「自分の思いを述べようとしない」「日頃からもっている感想、意見、信条、思想、そういったものを排除するように心がけてください」(仁平勝)、「できるだけよけいなことを言わない」(復本一郎)と戒めていることと軌を一にしている。子規は「明治二十九年の俳句界」(前掲書)の中で、
俳句は写生写実に偏して殆ど意匠なる者なし
と述べ、また、子規が熊本の俳人池松迂巷に宛てた手紙の中では、
家の内で句を案じるより、家の外へ出て、実景に見給へ。実景は自ら句になりて、而も下等な句にはならぬなり。実景を見て、其時直に句の出来ぬ事多し。されども、目をとめて見て置た景色は、他日、空想の中に再現して名句となる事もあるなり。筑波の斜照、霞浦の、荒村の末枯、の白菊、触目、何物か詩境ならざらん。須く詩眼を大にして宇宙八荒を脾睨せよ。句に成ると成らざるとに論なく、其快、言ふべからざるものあり。決して机上詩人の知る所にあらず。
という一節がある。むしろ、子規の「写生」説の方が、「写生写実に偏して殆ど意匠なる者なし」と言い放ち、迂巷に「実景に見給え」と「机上詩人」になることに対して警告し、ひいては「非人情」=「第三者」の立場の必然性を説いていることでは徹底している。子規の「実景」尊重こそ、対象を「第三者」(注6)の立場に置くこと、つまり「非人情」の「心的状態」にすることを漱石に思い悟らせた原因であろう。
画工は、第一章で、これからの旅の態度として、次のように述べている。
唯、物は見様でどうでもなる。(中略)一人の男、一人の女も見様次第でとも見立てがつく。どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、そのつもりで人間を見たら、浮世小路の何軒目に狭苦しく暮した時とは違ふだらう。よし全く人情を離れる事が出来んでも、せめて御能拝見の時位な淡い心持ちにはなれさうなものだ。[一]
しばらく此旅中に起る出来事と、旅中に出逢ふ人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだらう。丸で人情を棄てる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやりでに、節倹してそこ迄は漕ぎ付けたいものだ。[一]
「非人情」とまでいけなくとも、少なくとも「人間」を「見立て」でみようとする。すると、心労が「節約」でき、「淡い心持ち」になれるという。「見立て」は「俳句の方法」の点で言えば、「擬える」ことで、「比喩」である。しかし、「草枕」では「非人情」と同じく、対象との間に一定の距離を置く「心的状態」を表す言葉になる。これは漱石独自の面白い「俳句的な方法」の使用方である。「有体なる己れを忘れ尽して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ」[一]という文章の「純客観」はもちろん「非人情」のことである。従って、「非人情」が「第三者」、純客観な立場であるならば、「見立て」はより客観的な立場である。こういう立場で、那古井への旅が始まる。
画工がこれほど「非人情」に拘るのは、
小生は禅を解せず又非人情世界にも住居せず只人事の煩瑣にして日常を不快にのみ暮らし居候神経も無暗に昂進するのみにて何の所得も無之思ふに世の中には余と同感の人も有之べく此等の人にかゝる境界のある事を教へ又はしばらくでも此裡に逍遥せしめたらばよからうとの精神から草枕を草し候。小生自身すら自分の慰籍に書きたるものに過ぎず候 (明治三十九年八月三十一日書簡)
とあるように、「草枕」の執筆動機に示された「人事の煩瑣にして日常を不快にのみ暮らし居候神経も無暗に昂進する」状況が背景にある。
このことから、那古井への旅の動機は画工が神経衰弱を患っていたか、それに近い状況ではなかったかと推測する。俳人中村草田男の場合を例にすると、
其後、大学の過程に於て、激しい神経衰弱を患って、再び休学せざるを得ない仕儀に立ちいたった時に、ふと思いついて俳句文学に携わりはじめたのも、それは、ただ当面の必要上そうせざるを得なかっただけであって、意識的に深い動機に基づいていたわけではない。小説、戯曲類はもとより、短歌の如きものを読んでも、そこには必ず人事の諸相が採り上げられているだけに、直ちに深く案じいらざるを得ない結果となって、疲労しつつも鋭敏になっている私の神経には刺戟が強過ぎ、ひたすらにその重圧が耐え難かった。しかるに、俳句文芸は、殆んど平穏な自然界のみを対象とし、あるいはそれに類似した季節的風俗の外形だけを写しているものが大部分であって、読んでみてもなやまされることなく、鉛筆と手帖とを片手に、「写生」に郊外に出かければ、兎に角、その間は、草木の間に魂を悠遊させて、人生を直視することからまぬかれ、何よりも無為の時間の遅々として経過しがたい苦痛からのがれることができた。
『俳句を作る人に』(昭和三十一年七月)
草田男は「「写生」に郊外に出かけ」、画工は山路を登る。それ以降の草田男と画工の感慨とがそっくりそのまま重なり合う。一々例を挙げても切りがないので省略するが、要は画工の言を借りて言えば、「て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ」[一]ということである。それ以上に重要なことは、画工が山路を登る前もまた、草田男と同じ状況であったと思われることである。例えば、「普通の芝居や小説では人情を免かれぬ」「取柄は利慾が交らぬと云う点に存するかも知れぬが、交らぬ丈にその他の情緒は常よりは余計に活動する」ので、「それが嫌だ」[一]という画工と、「小説、戯曲類はもとより、短歌」は「人事の諸相が採り上げられている」ので、「ひたすらにその重圧が耐え難かった」という草田男とは非常に似通っていて、画工と草田男の類似性が感じられて面白い。首藤氏は、
……「草枕」は、「仕方がない」開化にさらされて神経衰弱に罹った漱石が、「仕方がなく」「神経衰弱に罹らない工夫」を張りめぐらせて獲得した癒しの世界だったということになる。「神経衰弱に罹らない」ための「仕方がない」態度、「非人情」による魂のだったといい換えてもいい。
「漱石の「仕方がない」態度―現代日本の開化」(前掲書)
と、漱石の「現代文明の開化」という講演録の内容を深く検討した結果、「「仕方がない」開化にさらされて神経衰弱に罹った漱石」像を導き出し上で、「草枕」の主題を導き出している。その広い視野から「仕方がない」をキーワードにして幹に要を得た結論である。なお、森田草平宛の書簡には、次のような文章がある。
画工は紛々たる俗人情を陋とするのである。ことに二十世紀の俗人情を陋するのである。乏を陋とするの極純人情たる芝居すらもいやになつた。あき果てたのである。夫だから非人情の旅をしてしばらくでも飄浪しやうといふのである。たとひ全く非人情で押し通せなくても尤も非人情に近い人情(能を見るときの如き)で人間を見やうといふのである。 (明治三十九年九月三十日付)
この書簡で、画工が「神経衰弱」を患っているとは一言も言っていない。しかし、重要なのは、画工の旅の前の精神状態を「俗人情」(「極純人情」とも言っている)とし、「俗人情」と「非人情」とを明確に対置していることである。首藤氏の結論部分に出てくる「神経衰弱に罹った漱石」の言葉や中村草田男の文章を手掛かりにして考えてみると、この「俗人情」と画工の「神経衰弱に罹った」精神状態とが同義であることは否定しようがない。これほどの精神状態であればこそ、画工が「非人情」を再三つぶやき、「非人情」を堅持しようとするのも、「たる春日に背中をあぶって、に花の影と共に寐ころんで居るのが、天下の至楽である。考えれば外道に堕ちる。動くと危ない。出来るならば鼻からもしたくない。畳から根の生えた植物のようにじつとして二週間かり暮して見たい」と思うのも無理のないことである。これらのことから、画工神経衰弱説があながちこじつけだとはいえない。
六 同化=画題成就の問題
「非人情」、あるいは「人間」を「見立て」でみようとする立場で、出会うのが那古伊の那美である。次の文章からわかるように、画工の関心の対象は那美の、特に「顔」(容貌)である。
昔から小説家は必ず主人公の容貌を極力描写することに相場が極つている。[三]
才に任せ、気を負へば百人の男子を物の数とも思わぬ勢の下からしい情けが吾知らず湧いて出る。どうしても表情に一致がない。悟りと迷が一軒の家に喧嘩をしながらも同居しているだ。此女の顔に統一の感じのないのは、心に統一のない証拠で、心に統一がないのは、此女の世界に統一がなかつたのだらう。不幸に圧しつけられながら、其不幸に打ち勝とうとして居る顔だ。不仕合な女に違ない。[三]
色々に考えた末、仕舞に漸くこれだと気がついた。多くある情緒のうちで、憐れと云う字のあるのを忘れて居た。憐れは神の知らぬ情で、しかも神に尤も人間の情である。御那美さんの表情のうちには此憐れの念が少しもあらはれて居らぬ。そこが物足らぬのである。ある咄嗟の衝動で、此情があの女のにひらめいた瞬時に、わが画は成就するであらう。[十]
画工はあくまでも絵描きで、俳人と同列に扱うことはできない。しかし、対象を掴み取り、画布、手帳に書き留めることは同じである。このときに大事なのは、対象とどう向き合うかである。主体と対象の関係に触れているのは安森敏隆氏である。安森氏は「漱石と子規―『写生文』と『叙事文』」(『漱石研究』NO.7、一九九六年十二月、翰林書房)の中で、次のように述べている。
(漱石の写生文に対する考え方は=筆者注)時には〈対象〉そのものが〈主体〉にくいこみ、そしてこちらの〈主体〉が〈対象〉にくりこまれるものとしてあったのである。そうした〈主体〉と〈対象〉の存在の不確かさを「作者の心的状態」である「意識」を通して解明しようと漱石は試行していたのである。
これは「写生文」に対する指摘ではあるが、「写生」を基本とする「俳句」にもそのまま通用する。そこで、主体と対象の関係で最も理想型は「同化」(一体化)である(注7)。
現代俳句では、
鶴鳴くやわが身のこゑと思ふまで 鍵和田秞子
鶴と私が一体になってしまったような境地になって、あんまり長くいたものだから、私が鶴になったような気持ちですね。鶴が鳴くと私が声を立てているような気持ちなんです。/(中略)私が自然と一体になっているという東洋的な発想ですね。
(鍵和田秞子「作句工房拝見 鍵和田秞子先生を訪ねて」「未来図」二月号、平成九年二月一日)
鍵和田氏はさらに言葉を続けて、「自然の中に入ってしまって」「鶴と一体になる」こと、つまり「同化」する「作り方ができるようになってきた」と述べ、「一体化」(同化)というものは作句の進化、句境の深化を意味することであると捉えている。
「草枕」では「彼等の楽は物に着するのではない。同化して其物になるのである」[六]と、「同化」することの意義に触れている。第七章では、「同化」の例として、
余は湯槽のふちに仰向の頭を支えて、透き徹る湯のなかの軽きを、出来る丈抵抗力なきあたりへ漂はして見た。ふわり、ふわりと魂がくらげの様に浮いて居る。世の中もこんな気になれば楽なものだ。分別の錠前を開けて、執着のをはづす。どうともせよと、泉のなかで、湯泉と同化して仕舞ふ。
とあり、「余」は「出来る丈抵抗力」のないところで、「魂がくらげの様に」なって、「楽なものだ」と思う。そこでは「分別」や「執着」をなくし、「どうともせよ」と身を投げ出し、「湯泉」という対象と「同化」する。鍵和田氏のいう「一体化」(同化)である。誰しも体験するもので、言わずもがなであるが、「非人情」と「同化」との関係で説明すると、「余」は「温泉」の心地よさも手伝い、「非人情」の状態となって、「同化」を経験しているといえよう。
「同化」の問題を考える意味で、「余が『草枕』」で述べている次の文章は重要である。
――あの『草枕』は、一種変つた妙な観察をする一画工が、たま 一美人に邂逅して、之を観察するのだが、此美人即ち作物の中心となるべき人物は、いつも同じ所に立つてゐて、少しも動かない。それを画工が、或は前から、或は後から、或は左から、或は右からと、種々な方面から観察する、唯だそれだけである。中心となるべき人物が少しも動かぬのだから、其処に事件の発展しようがない。
「中心となるべき人物が少しも動かぬのだから、其処に事件の発展しようがない」というものの、「草枕」にストーリー展開をもたらしているのは、画工という「観察する者の方が動いてゐる」主体が那美という「少しも動かない」対象に対して、「非人情」、あるいは「見立て」の立場でどれほど「同化」できたかである
その「同化」の観点から、有名な最後の画題成就の場面を考えるとどういうことになるのか。
那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。其茫然のうちには不思議にも今迄かつて見た事のない「憐れ」が一面に浮いて居る。
「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」
と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云つた。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。[十三]
この場面はこれまでの多くが主体である画工が対象である那美の「憐れ」の表情を感受したと捉えられている(注8)。言い換えれば、主体と対象とが「同化」した瞬間であるということになる。画題成就、めでたし、めでたしとなるところである。
ところが、十章で、すでに画題成就の種は明らかにされている。
色々に考えた末、仕舞に漸くこれだと気がついた。多くある情緒のうちで、憐れと云う字のあるのを忘れて居た。憐れは神の知らぬ情で、しかも神に尤も人間の情である。御那美さんの表情のうちには此憐れの念が少しもあらはれて居らぬ。そこが物足らぬのである。ある咄嗟の衝動で、此情があの女のにひらめいた瞬時に、わが画は成就するであらう。[十]
第十三章の船中での会話でも、
「なに今でも画に出来ますがね。只少し足りない所がある。それが出ない所をかくと、惜しいですよ」
「物足らぬ」、「足りない所」とは「憐れの念」であり、那美の顔に「憐れ」の表情が現れることを期待しているのである。「非人情」から対象を見るという画工の立場に注目するならば、この十章以降の画工は「色々に考えた末、仕舞に漸くこれだ」と早々と結論付けをし、「神の知らぬ情で、しかも神に尤も近き人間の情」などと勿体ぶった言い方で権威付けをして、那美という対象に「憐れの念」が浮かぶのが画題成就であると決め付けているということになる。これ以上同化作用は進みようもない。あるのは画工の頭の中に作り上げられた那美の「顔」があるばかりである。これでは、画工の「非人情」の立場は破綻していると言わなければならない。十章以降の十二章においてさえ、
しばらく人情界を離れたる余は、少なくともこの旅中に人情界に帰る必要はない。あつては折角の旅が無駄になる。人情世界から、ぢやりぢやりする砂をふるつて、底にあまる、うつくしい金のみを眺めて暮さなければならぬ。余自らも社会の一員を以て任じては居らぬ。純粋なる専門画家として、己れさへ、たる利害の累索を絶つて、優に画布裏に往来して居る。況んや山をや水をや他人をや。那美さんの行為動作と雖ども只の姿と見るより外に致し方がない。
とあるように、画工は「しばらく人情界を離れたる余は、少なくともこの旅中に人情界に帰る必要はない」との覚悟で、「那美さんの行為動作と雖ども只の姿と見るより外に致し方がない」と考えている。そうであるならば、「非人情」の立場を堅持しながら、むろんどんな結果が現れようとも、先入観なしに辛抱強く、那美の表情に現れる変化を観察することができたはずである。その結果が「憐れ」であったとすれば、那美という対象と同化したということになり、俳句的対象把握として推奨されるべきものになったに違いない。「同化」というものはそういうものである。
しかし、「非人情」の不徹底によって「同化」に至らなかったのはどうしてか。
能、芝居、くは詩中の人物としてのみ観察しなければならん。此覚悟の眼鏡から、あの女を覗いて見ると、あの女は、今迄見た女のうちで尤もうつくしい所作をする。[十二]
この文章からは、どんなに那美を観察しても、一向に掴みきれない画工の焦りを感じる。那美という対象と同化するには三泊四日という接触期間はあまりにも短かったということであろう。鍵和田秞子氏が「鶴鳴くや」という名句を作ったときの「あんまり長くいた」という言葉を持ち出すまでもなく、対象と「同化」するには充分な時間が必要なのである。ましてや、対象の相手は、花鳥風月と違って、生身の人間である。「同化」の問題は殊に初対面の男女の関係であればなおさら難しい。画工自身も那美の関係を危惧して、「現実世界に在つて、余とあの女の間に纏綿した一種の関係が成り立つたとするならば、余の苦痛は恐らく言語に絶するだらう」[十二]と言っている。なぜなら、「情に竿させば流される」[一]の「情」が介在し、「非人情」=第三者の立場を守ることができなくなるからである。そもそも、「同化」できなかった根本的原因は、首藤氏の言を借りて言えば、「「仕方がない」開化にさらされて神経衰弱に罹った漱石」の投影である画工が「近代(二十世紀)に毒された那美さんの顔」を引き寄せた(注9)ことにあったのかもしれない。あくまでも原因は画工の側にあって、それほど、画工の中に「近代(二十世紀)」の「毒」は深く浸透していたと言わなければならない。
このように、「俳句の方法」としての「同化」の視点で見てくると、「温泉」との「同化」とは事情が異なり、特に人物に対しては「同化」することの困難さを読み取ることができる。
……画工は、出会った入々、特に那美さんの過去の生活を知らず、その人々の起こす行動、事件、出来事の拠って来たる背景をも知らない。登場人物の片言隻句から、那美さんをめぐる事清が少しずつ明らかにはなってゆくものの、基本的には、画工は那古井温泉に於けるすべての、断片をしか見ることができない。この設定は注意されて良い。十三章に亘って描かれるすべてが画工の心理のフィルタを通していることは、主題とも関連しているであろう。
(宮内俊介「「酔狂」としての「草枕」」(「方位」第六号、一九八三、七)
ともあれ、画工は「フィルタ」越しでしか、那美という対象を見ることができなかった。このような画工では那美の「背景」が見えようはずもない。画工の思い込みによって、「非人情」を貫けず、那美という対象の「背景」にとことん踏み込むことができなかった。従って、「草枕」は「神経衰弱に罹った」画工が「癒し」を求めてやってきた那古井の温泉場で、「非人情」を通して、他者を理解しようとして、他者を理解することができなかった他者了解不能の物語であると言ってよい。
たとえ「草枕」が他者了解不能の物語で終ったにしても、多様な「俳句の方法」を小説に応用するといった「天地開闢以来類のない」(小宮豊隆宛書簡、明治二十九年八月二十八日)小説にあえて挑戦し、子規の提唱した「美なる処のみ」(「俳諧反故籠」『ほとゝぎす』第二号、明治三十年二月十五日発行)を詠む俳句説に従って、「美を生命とする俳句的小説」を仕立て上げた漱石の手腕はお見事である。漱石自身が「草枕」を「俳句的小説」と述べているのは嘘偽りのないことであると言っても差し支えがない。
終わりに 「草枕」否定の意味
「草枕」を脱稿して、三ヶ月もたたないうちに、鈴木三重吉宛の手紙(明治二十九年十月二十六日付)で、「草枕の様な主人公ではいけない」と否定し、
僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやつて見たい。
との決意を示している。この有名な一節ばかりが一人歩きをして、さまざまな憶測が飛び交っているが、この手紙全体を読むと、漱石の意図がはっきりと透けて見えてくる。
・大なる世の中はかゝる小天地に寐ころんで居る様では到底動かせない。然も大に動かさゞるべからざる敵が前後左右にある。
・大きな世界に出れば只愉快を得る為めだ杯とは云ふて居られぬ進んで苦痛を求める為めでなくてはなるまいと思ふ。
ここで、漱石が述べている「大なる世の中」「大きな世界」とは「世の中は自己の想像とは全く正反対の現象でうづまつてゐる。そこで吾人の世に立つ所はキタナイ者でも、不愉快なものでも、イヤなものでも一切避けぬ否進んで其内へ飛び込まなければ何にも出来ぬ」(同文)世界で、「近代」の「世界」ということになろう。
首藤氏の「漱石の「仕方がない」態度」(前掲書)によると、漱石は「現代文明の開化」を「「神経衰弱に罹らない程度」に内発的な開化に変えていくより他に「仕方がない」」という」「一見微温的な「仕方がない」生の態度」で対処すべきことを説いていたという。「現代文明の開化」という「近代」の「世界」の浸食をちょっとやそっとでは防ぐことができないことは、語り手である漱石自身がよく知っていたことになる。漱石(語り手)は、「草枕」刊行前後の書簡での自信満々な態度を見るにつけ、「草枕」は当初、「非人情」を標榜する画工を通して、「桃源境」のような反「近代」の世界に浸ることを良しと考えていたと推測される。しかし、漱石は、どの時点であるかは定かではないが、画工自身に付着した「近代」の「世界」が容易には払拭できないことが「非人情」、「同化」の不徹底さ、ひいては他者了解不能を招いたことに気付いたと思われる。言い換えて言えば、「非人情」、「同化」の不徹底さに対する、漱石の自身の反省である。そこで、「近代」の「大きな世界」に背を向けるよりはむしろ「近代」の「大きな世界」(他者)に積極的に参入し、「非人情」、「同化」を徹底させていくことが必要だと認識したのである。これが「草枕」否定の真意である。「草枕」以降の作品が「非人情」(第三者)の視点の徹底化を図りながら、この「近代(二十世紀)に毒された那美」に象徴される「近代」の「世界」を対象相手として、「同化」し、肉薄していくことになるのは至極当然なことであった。
「俳句の方法」(レトリック)である「写生」から導き出された「非人情」(第三者)の立場は、漱石は作家の営為の基本に据えられ、人間の内奥に透徹する「リアリズム」作家(注10)としての不動の地位を築いている。その出発点が俳句であり、その俳句の「方法」の応用が俳句的小説「草枕」であった。俳句創作の経験による「非人情」(第三者)の立場の発見という点で、俳句、俳句を応用した小説「草枕」は漱石文学の底流としての位置を確保していると言わなければならない。
[注]
(1)「ピットロホリー」は漱石が暗い憂鬱なロンドンの生活から抜け出し、唯一別世界のような非常に穏やかな体験をした所である。同じ頃、「僕は帰つたらだれかと日本流の旅行がして見たい 小天杯思ひ出すよ」(明治三十四年二月七日書簡)と書き送っている。「ピットロホリー」と「草枕」の舞台となった「小天」は漱石にとって、平岡敏夫氏が「漱石 ある佐幕子女の物語」(二〇〇〇年一月、おうふう)の中で指摘するように、「「草枕」での旅、つまり小天温泉への旅とこのスコットランド・ピットロホリイへの旅とを重ね合わせることができる」所であった。このことから、「昔」(『永日小品』)と「草枕」とは密接な関係があり、散文と小説の違いはあるが、俳句的作品という点では通底している。
(2)「文学論」そのものは一九〇七(明治四十)年五月に刊行されているが、もともとは東京帝国大文科大学で一九〇三(明治三十六)年九月に始まって一九〇五(同三十八)年六月に渡る、前後三年の講義の稿を中川芳太郎が整理し、最後の三分の一は漱石自身が手を入れたものである。従って、「草枕」執筆時点ではこの「文学論」の内容(文学方法)は自家薬籠中の物になっていたものと考えられる。
(3)漱石は講演録「文芸の哲学的基礎」(明治四十年五月~六月、『東京朝日新聞』)で、「文芸に在つて技巧は大切なものである」と言い切り、それは「もし技巧がなければ折角の思想も気の毒な事に、差程が出て来ない」からであると述べている。この頃の漱石は、「文学論」もそうだが、「何を」表現するかということよりはむしろ「如何に」表現するかという「技巧」(方法)の面への注視が強く働いていたことを忘れてはならない。
(4)原武哲「十一森の都」『夏目漱石と菅虎雄』、一九八三(昭和五十八)年十二月、教育出版センター。参照。
(5)松井利彦『日本近代文学16 正岡子規集』(昭和四十七年十二月、角川書店)の頭注。
(6)俳句における「第三者」とは、仁平勝氏の「個性」と言い換えてもいい。仁平氏が「俳句をつくろう」(講談社現代新書、二〇〇〇年、十一月)の中で、「反個性のすすめ」として、「俳句の世界が、反個性の上に成り立っている」文芸で、「反個性という場所から、これまで気づかなかったような自己表現の世界が生まれてくる」と述べている。「第三者」の視点に立つということは、「どうすれば詩的なに帰れるかといへば、おのれの感じ、其物を、おのが前に据ゑつけて、其感じから一歩退いてに落ち付いて、他人らしくこれを検査する余地さへ作ればいい」(「草枕」[三])ことであって、個性的なものを削ぎ落とすことと同義で、仁平氏の考えとそう遠くない。
(7)高浜虚子の「同化」については、大輪靖宏氏の「俳句の基本とその応用」(平成十九年一月、角川学芸出版)に詳しい。大輪氏はその中で、「虚子が自然の意思を十分に感じ取ることができたのは、虚子が常に、ただひとり大自然と同化するという姿勢を持っていたことが大きい」と述べて、「客観写生」に徹して行くと、「大自然以外の他者の存在を意識しない」ので、「自然と自分が一体化している」状態になると説明している。
(8)「草枕」は画工が那美の「身体に触れる」過程を描いた作品だとして、
画工は那美の「肩を叩」き、はじめて他者としての身体に触れる。この瞬間、「人の世」も「人でなしの世」も、そして辿ってきた過去という時も超えて、二人は「人」として向かい合い、一瞬一瞬ふれあえる自己と他者の関係のはざまに、立つことができたのかもしれない。(大津知佐子「「波動する刹那」―『草枕』論―」『漱石作品論集第二巻 坊っちゃん・草枕』、平成二年十二月、桜風社)
という論考がある。画工と那美の関係の深まりの過程に注目している点では私の論考と同じである。しかし、最後の場面は画工と那美との触れ合いが確認できるとしてい ることは同意できても、画題成就に限っては異論がある。
(9)東郷克美氏は「「草枕」水・眠り・死」(『漱石作品論集第二巻 坊っちゃん・草枕』、平成二年十二月、桜風社)の中で、「那美さんの分裂・不統一と二十世紀的現実のそれとの対応もすでに指摘されているが、だとすればその分裂は二十世紀の住人たる画工のものでもあるはずだ。(中略)那美さんの分裂・混乱はいわば見る存在としての画工のそれの投影だとも考えられる」と述べている。「二十世紀的現実」という点での、画工と那美の同質性を指摘している。
(10)田中実氏は「小説は何故(Why)に応答する」(『これからの文学研究と思想の地平』、二〇〇七年七月、右文書院)の中で、「漱石の道程は『道程』『こゝろ』の一人称から「三人称客観」の『道草』で近代小説の完成に向かう」として、漱石は「三人称客観」のリアリズムを成就させた作家であると捉えている。この「三人称客観」は「非人情」(第三者)の立場の発見が出発点になっていることは言うまでもない。
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