【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

夏目漱石の「熊本は森の都」考 

2025年01月29日 17時44分33秒 | 文学者顕彰

夏目漱石の「熊本は森の都」考    永田満徳

 

「熊本は森の都」と夏目漱石が言ったとされることへの疑義

 まとめ

・夏目漱石は「熊本は森の都」と言っていない。

・紀行文『五足の靴』の中で、五足の靴の一行が熊本市街は「森林」のようで、「ああ、熊本はこの数おおい樹の蔭に隠れている」と述べたことが誤って、漱石の言葉として伝えられたのであろう。

・その原因は、郷土史家の平野流香氏が「肥後史談」で書いた文章であろう。つまり、平野氏が『五足の靴』の記述を夏目漱石の記述と混同し、「森の都」という措辞を付け加えて、夏目漱石は「熊本は森の都」と言ったとしたことによって、「夏目漱石が『熊本は森の都』と言った」というフレーズが拡大して行ったと考えるのが妥当ではないか。

 

  • 熊本市歌2番における「森の都」:1930年(昭和5年)制定

熊本市歌2番

常盤(ときわ)の緑いらかを包み

森の都と世に謳われて  文運さかゆる平和の都   

われらの都大熊本市           (熊本市歌2番)

 

  • 「熊本は森の都」と夏目漱石が言ったという。

・夏目漱石が熊本に来た時に坂の上から熊本市街を見下ろして「あぁ、熊本は森の都だな」と思わず口をついて出たという。

・「肥後史談」『肥後史談』前編のp134で、郷土史家の平野流香氏が書いている。

 

夏目さんと熊本とを結びつけて考へる時、どうしても思ひ出さずに居られぬのは、先生の熊本に対する、第一印象の言葉である。上熊本から京町臺を通つて、一目に熊本の町を見下した時、『あゝ森の都だな』と思つたといふ事を、當時の『文章世界』か何かの上で云つて居られたのを、見たことがある。森の都――それは近年、わが熊本市の別號であるかのやうに、一般に用ひられるやうになつたが、その命名者が漱石氏であることを忘れてはならない。而してこの樹木の多い古風な森の都に、一世の文豪が、その數年の生活を送られた事を思へば、何だか熊本も、少々光彩を添へる様な氣がする。

 

論証① 『漱石全集』のどこにも「森の都」という言葉は出てこない

1.『漱石全集28 総索引』で「文章世界」の項を見ても、熊本に対する第一印象の話も「森の都」という言葉は出てこない。

⒉『漱石全集25』p249~250 に「名家の見たる熊本」(九州日々新聞 明治41年2月9日)が収められており、漱石自身の言葉で熊本についての第一印象が以下のように述べられているが、「森の都」という言葉は出てこない。

 

(明治29年・永田注)初めて熊本に行つたときの所感 夫れならお談いたしませう、(中略)然して彼の広い坂を腕車で登り尽して京町を突抜けて坪井に下りやうといふ新坂にさしかゝると、豁然として眼下に展開する一面の市街を見下して又驚いた、而していゝ所に来たと思つた、彼処から眺めると、家ばかりな市街の尽くるあたりから、眼を射る白川の一筋が、限りなき春の色を漲らした田圃を不規則に貫いて、遥か向ふの蒼暗き中に封じ込まれて居る、それに薄紫色の山が遠く見えて、其山々を阿蘇の煙が遠慮なく這ひ廻つて居るといふ絶景、実に美観だと思った。(後略)

 

以上、レファレンス共同データベース 提供館:熊本県立図書館

https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000248467&page=ref_view

 

論証② 当時の熊本は「都」と呼ばれるほどの市街地ではなかった。

・明治40年の『五足の靴』における熊本の印象

(熊本市内を逍遥した・永田注)その夜心の中で、こういう判断をした。『熊本は大なる村落である』と。

 

・漱石は都会人

漱石はチャキチャキの江戸っ子を売り物にしていた方のように思える。漱石の江戸っ子というより都会人、東京気質からすれば「都」は東京以外には設定出来なかっただろう。(中略)熊本市の人口も明治30年には52,110人に過ぎなかった。

岡村一 郎「夏目漱石『熊本住い』のこと」

 

発展① 北原白秋らの紀行文『五足の靴』の熊本の印象記の影響

五足の靴の一行が、熊本市街は「森林」のようで、「ああ、熊本はこの数おおい樹の蔭に隠れている」と述べたことが誤って、漱石の言葉として伝えられたのであろう。

なお、直接は「森の都」という言葉は出てこない。

 

上熊本の改札口を出て、今まで渴していた東京の新聞を求めたけれども、見附からなかったので、直ぐに人が車を走らせた。坂の上から下の市街を展望すると、まるで森林のようである。が、巨細に見ると、瓦が見えて来る、甍が見えて来る。板塀が見えて来る、白壁が見えて来る。『ああ、熊本はこの数おおい樹の蔭に隠れているのだな。』と思いながら、彼方の空を眺めると、夕暮の雲が美くしく漂っていて、いたく郷愁を誘われる。

発展② 『五足の靴』の記述と「森の都」とに関する言説

・かつて熊本大学名誉教授の首藤基澄先生から、夏目漱石の「熊本は森の都」とされる件については疑わしいこと、むしろ『五足の靴』の熊本の印象の記述が森の都の内容に近いことを聞いていた。

・近年、夏目漱石の「森の都」と『五足の靴』の記述については、村田由美著『漱石がいた熊本』(徳間書房、2019/5/15)にも触れられている。

 

結論 夏目漱石の「熊本は森の都」という措辞の伝播拡大

「夏目漱石の『熊本は森の都』」は郷土史家の平野流香氏が「肥後史談」で書いた文章が初出で、平野氏が『五足の靴』の記述を夏目漱石の記述と混同し、「森の都」という措辞を付け加えて、夏目漱石は「熊本は森の都」と言ったとしたことによって、「夏目漱石が『熊本は森の都』と言った」というフレーズが拡大して行ったと考えるのが妥当ではないか。

 

補足 下記の1月19日の「テレビ熊本ドキュメンタリードラマ 夏目漱石」において、二つ点で大いなる疑義がある。

・その一つは冒頭に、漱石が「熊本は森の都」と述べる場面。

・その二つは締めくくりに、漱石が「熊本は第二の故郷」と述べた場面。

※ちなみに、荒木精之宛の書簡並びに福島次郎『剣と寒紅』に出てくるので、三島由紀夫が「熊本は第二のふるさと」と思っていたことは確かである。


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