日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

イザヤ書27 51章1~23節 救われる主

2024年07月09日 | Weblog
 イザヤ書27 51章 1~23節 救われる主
はじめに:51章では、神が、主のしもべの声を聞き、義を追い求めるイスラエル人への救いの約束が描かれています。「義」とは、主ご自身が、父なる神のみ言葉を聞き、それを遂行されることです。具体的には、罪ある者、疲れた者をお救いになることです。そして、心に励ましを与え、罪びとであるイスラエル人や異邦人の立ち直りを図ることです。このように、義と救いは同義語です。救いとは、不義の世界のただなかにあって、義を求めることであり、神なる主のみが、義の本源であると知らねばならないのです。イザヤは、イザヤ書において「義」と言う言葉を多用しています(32回)。それだけ「義」と言う言葉には重要な意味があります。「義を追い求める者は命に到り、悪を追い求める者は死に至る(箴言11:19)」。「主は悪者の行いを忌み嫌い、義を追い求める者を愛する(15:9)」。日野教会では、その月の第一週の日曜日に「聖餐式」を行うことになりました。聖餐式とは何か。それはパンとぶどう酒(ジュース)を、食し、飲むことによってキリストを体感することです。それは、主と一つになる信仰の交わりを通してです。信仰とは義を追い求めて救われることです。聖餐式によって、神と人との間の契約関係が確認されます。しかし、牧師は言います。「三位一体の神」聖霊の救いを知らない者、無関心な者、神を信じない者は、分からないものは、聖餐式には、参加しないで欲しいと。聖餐式とは、主といのちを共有して生かされることだからです。
51章:「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ(51:1)」。義を追い求める者は、主を尋ね求める者です。義の追求とは、主を尋ね求めることです。切り出された岩、掘り出された穴とは、自分たちのルーツを指します。そのルーツを追求せよと、主は仰せられるのです。そのルーツとはなにか、
「あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを(51:2)」。父アブラハムとその妻サラの間には、イサクが生まれました。サラは、このとき90歳でした。この恵みは、神のご計画の一部でした。この三人の家族が、イスラエルの民を産んだルーツです。イスラエルの民は、その初めから、主の召しがあり、主によって形づくられ、その後に民族になりました。イスラエルの民は、主によって切り出された岩であり、ほりだされた穴なのです。アブラハム契約が、それを示しています。彼らが全きものなら、その増大繁栄を、主は、保証したのです。 「まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある(51:3)」。御声を聞いて、義を求める人には、慰めの約束があります。この慰めは、自分たちのルーツ基づくものです。主は、「神の国」を預言しています。そこには、楽しみと喜び、感謝と歌声が、満ちています。
「わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め国々の民の光とする(51:4)」。これまでと同じく、これからも、主の祝福のご計画が、語られていきます。「わたしの民」とは、イスラエルの民です。「わたしの国」とは異教の国です。イスラエルを含め、世界中の国々に、主は、語りかけます。わたしに従えと。なぜなら、すべての教えは、わたしから出て、わたしが公義を定め、それを、国々の民の光とするからです。主は、彼らの進むべき道をさし示します。
「わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。わたしの腕は国々の民をさばく。島々はわたしを待ち望み、わたしの腕により頼む(51:5)」。異邦人に対する主の救いの御手が延ばされています。異邦人は、偶像崇拝によって、主に逆らう者としではなく、主の、福音伝道の力によって、偶像を排し、主を信じ、喜んで、主に従う者になるのです。このように、神の御手は、エルサレムを基にして全国へと広がっていくのです。ここのにも、神のご計画を見ることができます。
「目を天にあげよ。また下の地を見よ。天は煙のように散り失せ、地も衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。(51:6)」。たとえ、天変地異が起こり天地(この世)が滅び去るようなことがあっても、主のことば(義)は、永遠に続くのです。
「義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。(51:7)」。「しみが彼らの衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす。しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ(51:8)」。ここには、イラエルの「残りの者」に対する励ましの言葉が描かれています。迫害者を恐れるなと、主は言います。しみや虫は、迫害者に対する蔑称です。その迫害が、どんなに厳しくても、いつかは、終わりが来ます。一時的です。それに反して、主の義と救いは永遠です。
「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の、み腕よ。さめよ。昔の日、いにしえの代のように。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか(51:9)」。さめよ、さめよ、と言う呼びかけは、だれがだれに呼びかけているのでしょうか。イスラエルの「残された者」が、主に向かって呼びかけているのです。万軍の主、神は、イスラエルの呼びかけに対して沈黙を守っています。イスラエルの民の大部分は、神に不従順です。このとき、神の対応には二つあります。一つは、罰を与えることであり、もう一つは、沈黙です。神には、神の時があります。その時とは、われわれの時とは違います。イスラエルの民は、それを理解できません。沈黙を守る神に対してイスラエルの「残りの者」が、さめよ、さめよ、眠りからさめよ、と呼びかけたのです。これは、主への祈りであり、目を覚まして、力をまとい、その力強い御腕を、いかんなく発揮してくださいと、叫んだのです。しかし、神は、決して、眠っていたわけではありません。時が来るのを待っていたのです。その時とは、イスラエルの悔い改めです。「ラハブ」とは海に住む巨獣の名です。比喩的に「出エジプト」のエジプトを指しています。「竜」とはエジプトの背後で働く悪魔をうかがわせます。「海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではないか(51:10)」神の命令によって。紅海が割れ、イスラエルの民が救われたことを指しています(出エジプトを見よ)。このように、強大な敵(バビロン)に対して「残りの者」たちは、神のその力の行使を願ったのです。それには神は応えます。「主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入りその頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る(51:11)」。「神のなさることは、すべてときにかなって美しいのです」。多くのイスラエルの民が、捕囚の地に残りました。しかし、「主に贖われた者たち(残りの者)」は、シオン(エルサレム)に帰還します。彼らには、とこしえの恵みと喜びがあり、悲しみと嘆きはありません。神を敬う者を、神は祝福します。「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは(51:12)」。「天を引き延べ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、しいたげる者の憤りを恐れている。まるで滅びに定められているかのようだ。そのしいたげる者の憤りはどこにあるのか(51:13)」。これまで見てきたように、主はイスラエルの民に「このわたしが、あなたがたを慰める」と、救いの御手を伸ばされています。真に彼らを慰めることのできるのは、神であって、ほかには存在していません。それにも拘らず、「なぜ死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるのか」と、主の救いの御業を忘れ、まるで自分たちが滅びの民であるかのように、おそれ、おののいている彼らに対して、主は、「わたしを信ぜよ、それ以外にみちはない」と叱責します。
「捕らわれ人は、すぐ解き放たれ、死んで穴に下ることがなく、パンにも事欠かない(51:14)」。神は、眠っていたわけではありません。時を得て、捕囚の民を解放し、死から救い、パンの心配を取り除き、経済的安定も与えたのです。
「わたしは、あなたの神、主であって、海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主(51:15)」。「わたしは、わたしのことばをあなたの口に置き、わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、『あなたはわたしの民だ』とシオンに言う(51:16)」。主は「万軍の主」です。偉大な御業を行うことのできるお方です。主は、シオン(エルサレム)に言います。「あなたは、わたしの民だ」と、主はイスラエルの守り神であり、救い主です。
「さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した(51:17)」。9節では、主に対して、エルサレムが「さめよ、さめよ」と叫びましたが、今回は、主ご自身が、エルサレムに対して叫びます。「さめよ、さめよ」と、おまえたちこそ、目を覚まし、「悔い改めて、主に立ち返れ」と、怒りを露わにしています。神に目を覚ませというのなら、まず、自分自身が目を覚まさねばならないのです。「怒りの杯」、「よろめかす大杯」とは、主の懲らしめ杯を、指します。具体的には「バビロンの捕囚」です。彼らは主に背を向け、自分勝手の道に向かって進んでいたので、主は彼らを懲らしめるために「バビロン」と言う国を興して、捕囚の民としたのです。エルサレムは、自分たちの置かれている状況を理解していなかったのです。
その結果、「彼女が産んだすべての子らのうち、だれも彼女を導くものがなく、彼女が育てたすべての子らのうち、だれも彼女の手を取るものがない(51:18)」。彼女とは「エルサレム」です。その子らも、その子らの子たちも、子々孫々その犯した罪ゆえに、彼女(エルサレム)を救うことができないのです。
「これら二つのことが、あなたを見舞う。だれが、あなたのために嘆くだろうか。滅亡と破滅、ききんと剣――わたしはどのようにしてあなたを慰めようか(51:19)」。「あなたの子らは網にかかった大かもしかのように気を失って、すべての町かどに倒れ伏す。彼らには、主の憤りと、あなたの神のとがめとが満ちている(51:20)」。主は言います。わたしの怒りと、咎に満ちた、あなた(エルサレム)のために、だれが嘆くだろうか、と。彼らもまた、網にかかった大かもしかのように、気を失っていたからです。信仰から離れていたからです。これが、罪に満ちていたエルサレムが受けねばならなかった、主の怒りです。主は、私たちを子として扱っておられるので、私たちを訓練するために、こうした怒りを現されるのです。それは、平安な義の実を結ぶためです。私たちを愛しておられるからです。彼らは、敵(バビロン)の虐げのなかで恐れと、悲しみの中で、生き続けていました。恐れの根本原因は、不信仰です。恐れを克服する道は、信仰によって主を見上げることです。ここには、エルサレムの不信仰(偶像崇拝)に対する主の憤りと咎めがあります。しかし、主は、どのようにしてあなたを慰めようかと、慰めの御業を考えておられます。主は、どんなに、その罪に憤りを現しても、契約の民を滅ぼしたりはしません。お救いになります。
「それゆえ、さあ、これを聞け。悩んでいる者、酔ってはいても、酒のせいではない者よ(51:21)」。信仰(神)か、不信仰(偶像)で悩んでいる者に、酔ってはいても酒のせいではない者に、主は、次のように、宣告しています。「あなたの主、ご自分の民を弁護するあなたの神、主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない(51:22)』」と。主は、私たちを弁護してくださる方です。しかも、完全な弁護士です。私たちを贖ってくださり、私たちをお救いになる、お方です。それゆえ、私たちは、二度と神の怒りの杯を飲むことはないのです。本来「杯」は、友好的な交わり、祝福を象徴しています。それを、ここでは、よろめかす「杯」、怒りの「杯」と否定的に使われています。神の正義の怒りを象徴しています。
「わたしはこれを、あなたを悩ます者たちの手に渡す。彼らは、かつてあなたに、『ひれ伏せ。我々は乗り越えて行こう』と言ったので、あなたの背中を地面のようにし、また、歩道のようにして、彼らが乗り越えて行くのにまかせた(51:23)」。あなたは、バビロンの言葉に答えて、あなたの背中を地面のようにし、歩道のようにして。彼らが乗り越えて行くに任せたのです。彼らの蹂躙にまかせたのです。これは、エルサレムの罪に対する主の怒りでした。しかし、主はどんなに怒っても、エルサレムの味方です。契約の民を滅ぼしません、怒りの杯(これ)をバビロン(悩ます者)に加え、これを滅ぼすのです。主は、その怒りを必ず取り去ってくださいます。それだけでなく、自分を攻撃していた相手に、その目を、向けられます。私たちの味方となり、防御してくださるのです。主は、何をするにしても、自分の手を汚しません。必ず代わりを探し出します。エルサレムを罰するにときには、バビロンを使い、用済みになれば、クロス王を使って、これを滅ぼします。主は、万能なお方です。その罪に打ちしおれている者を、主は立ち返らせ、悔い改めさせ、お救いになります。
パウロはコリント人の第二の手紙、冒頭(1章3~6節)で次のように言います。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父すべての慰めの神がほめたたえられますように。神はどのような苦しみの時にも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めが、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです」。全知全能の神である主が、どのようにして私たちを、ご自分のもとに引き寄せられるのか。それは、この方が選ばれた一人のしもべを通してです。ここには、神の偉大さが描かれています。
令和6年7月9日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« イザヤ書29 53章1~12 | トップ | イザヤ書30 54章1~17節 »

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事