おとといくらいに、幼稚園のお庭で撮ってきたコスモスです。見るからに心配そう。こんなふうに写真を見て、今の自分の調子がわかる感じですね。やっぱり本調子じゃないんだなあ。
暗がりに翳った、うすべにが、見えない網にしばられて苦しがっているかのようで、それが返って痛々しく、美しく見える。人間の心の奥に潜んだ、痛い記憶のつぼをくすぐるような。
たくさん花の写真を撮っていますが、こんな風に花がずっと語りかけてくれるような写真が撮れるようになったのは、調子を崩してからです。苦しいことがあってから。いろんなことを、一生懸命耐えていこうとしていたわたしを、なんとかしてくれようとしているから。だから、わたしが撮る花は、みんな、「見ていられない、たまらない」という顔をして写ります。
友達が少ないわたしは、昔から植物に話しかけてきました。木や花しか、ほんとうのことを言える友達がいなかった。人間はみな、うっとうしい嘘の鎖に縛られて、本当のことを何もいえなくなっているから。だからとても苦しい。
でもそれが幸いして、いろいろ面白いこともわかってきました。木や花がどんなことを感じて、どんなことをやっているかが、わかってきた。
今朝は、久しぶりに、庭の植物にたっぷりと水をやりました。わたしが病気でできなくなってから、ほとんど天水と植物の忍耐に頼っていたのですが、さすがに耐え切れなくなって、もう庭が洪水になるほどにやりました。
庭の世話をやりはじめて、わかってきたことのひとつは、庭木は人間が思っているよりもずっと、たくさん水をほしがるということ。それも、浴びるほどほしがるということ。それはなぜかというと、人間の家の庭にいるということが、植物にとっては強いストレスだからなのです。それは、人間がいやなのではなくて、人間が、苦しすぎるから。あまりにも、苦しんでいるから。
苦しんでいる人間を見ると、花や木は何とかしてあげたい、という気持ちがどうしても動いてしまう。そしてとても苦しいことになる。愛はつらい。やらなくてもいいことを、どうしてもやってしまう。
庭の植物が水をたくさんほしがるのは、渇いているということもありますが、それよりも何よりも、人間の愛がほしいからなのです。あまりに、痛いからなのです。どんなにがんばっても、人間には決してわからない。そういうことを、花や木はやってくれているのです。
人間は、わからないといけない。どんなにたくさんのものが、愛だけで、人間が生きることを助けてくれようとしているか。
写真の花を見て、その気持ちがなんとなくわかるという人は、きっとわたしだけではないでしょう。もうたくさんの人が、ほんとはわかるようになってきているはずです。そんな人は一度、植物と話をしながら、庭の世話をしてみてください。ほんとうに、たくさんのことがわかりますから。美しい心で、どんなことをやってくれているかが、しみじみとわかってきますから。
裏庭のアロエが水をたくさんほしがるので、じょうろに何杯もやっていました。それでもほしがるので、あとでやるからねと、ほかの庭木に水をやっていましたら、何度か水道と庭を往復するうちに、もういいよ、いらないよ、といってくれるようになった。本当はほしいのだろうに、わたしが何べんも何べんも庭木に水をやっているのを見ているうちに、いやになってきたからです。
そんなにまでしてもらって、ほしくないよ、というのです。
ほんとうですよ。
花や木の心に心を開きながら、水をやってみてください。きっとわかるようになりますから。どんなに彼らがやさしいか。本当に人間を心配しているか。
みんな、とてもかわいいのです。