これは、去年の五月頃に撮った、ヒルザキツキミソウです。この頃に撮った写真は、みんなこんなふうに、明るい。この頃はまだ、病気がこんなに長引くとは夢にも思っていなかったのです。がんばっていれば、すぐにでも直ると思っていた。だから、どんなことがあっても、負けないさって感じで、楽しくがんばろうとしていました。絵もたくさん描いていた。
でも、しばらくすると、これは甘くないぞ、という事態が、次々とふりかかってきた。苦しすぎる現実をつきつけられた。これはあんまりだ、ということもあった。必死で、なんとかしてきました。苦しすぎることを、苦しすぎることにしないために、最低限、魂が息をできる場所を確保するために、今思えば、むごいという選択もしなければならなかった。そしてそれらを、すべて一人でやらねばならなかった。
できてきました。できたのだということが、まるで現実とは思えないほど、いろいろなことをやってきた。これらはすべて、まるでわたしではないものがやったことのようだ。
いったい、わたしとは何なのだろう。こんなことさえ、できるものなのか。
絶対の神は、存在しませんが、不壊の神なら、存在するといっていいでしょう。決して壊れぬ神。決して滅びぬ神。それは、自分というものです。これだけは絶対に壊れない。この真実を信じて、すべてをやりぬいていけば、人は、自分はすごいことができる、という真実をつかむのです。
こんなこと、信じられない。できたのか。これがわたしのやったことか。
わたしとは、こんなにすごいのか。
自分を信じれば、あらゆることができる。とんでもない、こんなことは不可能だ、ということさえ、できる。本当にそうなのです。これは、やってみたものならだれにでもわかる。
百万の大軍に、ひとりで立ち向かうことさえ、できる。
愚か者はこれがわからない。人間は、よい餌をやれば何でもするものだと思っている。自分が自分であるということだけで、すべてをやるというものの存在を、理解できない。だから、一番大切なところで、選択を誤り、恐ろしい事態をまねく。
金剛不壊、の自分を持つ、人々を、紙くずのように軽く扱えば、どういうことがおこるか、まるでわかっていない。それが愚か者というものです。
この世界のすべての存在は、この金剛不壊の神を、内部に持っている。それが目覚めれば、すべてが始まる。永遠の自分の、創造が始まる。
あらゆるものが美しい、愛の響きの世界が、ひろがってゆく。