小学校の前庭に立っている、ヒマラヤスギです。とてもきれいでしょう。前にも使ったことあるかな。ヒマラヤスギは、外来の植物で、まだ日本の風土になれておらず、たいていの木は、とても苦しそうな感じで写るんですが、この木は写すたびに、ほんとうに美しい顔を見せてくれます。
とてもすばらしい木です。
昔、苦しいことがあって、傷ついた跡がありありと残っている。それもひどい傷跡です。それを乗り越えて、すべてをよしとして、ここに生きることを決めてくれた。だからこそこんなに、美しくしていることに、耐えられるのでしょう。
木にも、いろいろあって、目で見ると本当に美しい木なのに、写真に撮ると、どうしても美しく写ってくれない木があります。自分は、きれいに写るのはいやだって言って、なんだかとても、もさっとした感じに写ってしまうんです。どうしてかなって思うのは、その木はまだ、りんと額をあげて、美しさをやるということを、学んでいる最中だからだと思います。
美しいということが、どんなことに耐えねばいけないかを、その木は知っているのです。だからこそ、まだ自分はそこまでにはいかないと思う木は、どうしても美しく写ってくれない。苦しい、という顔で、後ろに控える、という感じで写るのです。
人間には、時に、美しければ、何をしてもいいという感じで、やっている人がいますが、それは美しさということを、何も知らない人がやっていることです。美しいということは、あらゆるものを、美しさのために、捨てなければいけないということなのです。それができてこそ、真の美しさが備わる。美しさで、すべてを得ようとする人は、あまりにも、阿呆なのです。わかっていないのです。
美しいものは、美しいというだけで、あらゆるものを、与えねばならない。それができるものこそが、真に美しい。それがわかっている人は、必要なとき以外は、すすんで自分を美しく見せようとはしないものです。
美しさで、すべてを奪おうとするものは、すでに醜い。それをあらゆるもので飾り立てて隠して、なんとかしているだけです。それでも、内部の苦しさがもれ見えて、表面を美しくすればするほど、阿呆か、というものになる。
やめなさい。やめてください。
それは阿呆ですよ。
て、ほとんどの人は、本人に言えない。言ってもわからないか、怒られるだけだから。
考え付く限りの、上等なもの、きれいなもので、身いっぱいに飾っている人は、どんな美人でも、阿呆に見えますよ。男でも女でもそうですが、どちらかといえば、男性のほうが、阿呆に見えますよ。女性はまだ、きれいにすることが、常識の範囲で、許されますから。
きついですねえ。ほんまに、ひっどい目にあってますから…。