中庸の徳たるや、それ至れるか。民鮮きこと久し。(雍也)
(ちゅうようのとくたるや、それいたれるか。たみすくなきことひさし。)
何事にも、バランスのとれていることが、一番よいことなのだが、人々は長いことそれを忘れているようだ。
今日は、ちょっと気分を変えて、論語です。頭の調子が悪いので、さて書けるかどうか。苦しいときの論語だのみ。当たり前のことが書いてあるだけなのですが、それだけに難しい。人間は、人間を、難しくしすぎるんですね。
最近は、ちまたに、どうかしているのか、という人が増えているので、わたしも少々頭がいたいのです。(語調がきついのは、ひどい目にあっているからです。)
やりすぎ、やらなすぎ、かざりすぎ、ほっておきすぎ、とにかく、偏りがひどいのです。いいと思ったら、そればかりに行って、ほかが一切見えない。そればかりやりすぎて、結果的にそれがなくなったら何もなくなる。
最近の若い人の中には、アニメキャラのような格好をして外を歩いている人がたくさんいますが、それはそれは、見ている人は、心の中で「やめてくれ」と悲鳴をあげています。心の中が丸見えだからです。極端に走る人は、自分の中に大切なことが何もない、とその格好そのもので叫んでいるからです。自分は空っぽだと、身を極端に飾ることで、叫び続けているのです。
自分の中に、信じるものがある人は、粗末な服を着ていても、とても美しく感じます。行動が美しいからです。自己の核が、身の内で美しく光りだしてくる。背の高さや手足の長さや、太っているとかやせているとかに関係なく、自分自身を信じている人は、存在そのものの光が、たとえようもない美しさをその人に点すのです。
自己の核が確定している人は、自分自身の要があるので、極端に走ることはありません。自分を知っているので、できることだけを、必要なところでする。そのバランス感覚ができてくるのです。やるべきことを、やるべきところでする。負うべき責任は負う。その美しさが自分の誇りとなり、まっすぐ神の前に胸を張れる幸せが、人生を満たす。
これが中庸の徳というものなのです。
自分を信じている人、自分をわかっている人は、ルックスの如何にかかわらず、とても美しい。飾る必要は、ほとんどない。そのものだけで美しいから。それがわかっていない人だけが、あらゆるややこしいもので極端に飾り、ほんとうの自分とはまるで違う、おかしなものになっている。
要するに、極端に走る人は、自分を見失っているのです。自分を、バカだと思っているのです。だから、バカじゃないものに見せたがり、結果的にバカをさらすのです。
今日はちょっときついかな。でもこれくらいいいでしょう。えらい目にあいましたから。