やんぬるかな。われいまだ、徳を好むこと色を好むがごとくするものを見ず。(衛霊公)
やれやれ、わたしはいまだに、恋をするほどの情熱で、学問に熱中するものを見たことがない。
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さてと。論語になると、閲覧数が平常にもどりました♪ これは察するに、絵の中の天使が、非常に美人だったからだと思います。要するに、くそまじめでお厳しい孔先生より、美女のごとき天使の顔を見るほうがよかったのでしょうか♪
昔も今も、人間は、お勉強より、レンアイが好き。男の子も女の子も、かわいい異性が好き♪
もっとも、それなりに異性に好かれるためには、お勉強もしないとだめです。なんにも知らないお子ちゃまは、相手にされませんから。それなりに教養を磨き、センスを磨き、「えらい」人になりませんと。ほんまにもう、いろいろと、人類は賢きことをおっしゃっていますが、究極の目的はほとんどみな同じ。「かわいい恋人がほしい」。すべての行動の原因は、ほとんどそれですね。
まったく同感だという人、手をあげなさい。
人間の幸福も、苦しみも、すべてはこの、男と女のことから生じる。エゴと愛のせめぎあう性愛の現実。奔馬のように、これをほしいと思う感情を抑えきれないのはどうしてか。快楽をむさぼらねば、生きることは苦しすぎる。これほしさのために、人間はあらゆることをしすぎる。欲深き人間の宿業を超えられぬ自分が苦しい。その苦しさを補うために、それがほしい。美しい女性が、あるいは男性が、ほしい。
これはあまりに苦しい。
その苦しさから一時でも逃れるために、愛がほしい。愛してくれる伴侶がほしい。だれよりも自分を愛してくれる、自分だけを愛してくれる女が、男がほしい。こんなにも、自分は、未熟で、ちっぽけだから。バカなことばかりしてしまうから。それだけのために、すべてをだいなしにしてしまうから。だから、愛してほしいんだ。
だれかに、はげしいほど、くるしいほど、愛してほしいのだ。あまりに苦しいから。
だから人は、愛をほしがる。性的欲望におぼれる。だれもがそのために、常に飢えている。生きることが、痛い。痛いことを忘れたい。そのために、恋をする。
イシベキンジロウさんの孔先生は、なげくばかりでしたが、わたしは一応女性ですので、この問題には深いところを見てみたいと思い、いつも考えています。人間が、この苦しみから解放されるためにはどうしたらいいのか。なぜこの世界に、男と女があり、セックスがあるのか。
ここはエゴの風吹きすさぶ世界。どんなに美しいものでも、立派なものでも、いつかは消えてゆく世界。あらゆるものが、他者を食わねば、生きてはいけない世界。ほかのものより自分が強くなければ生きていけない。弱肉強食の現実は、常に滅亡の危機を大きくはらむ。その世界で、男と女のセックスは、唯一、他者と自分が対等になるものです。お互いに、お互いが存在しなければ、得られない快楽がある。そこに、愛への入り口がある。のではないか。
それは、相手より自分が大きくなければ、生きていけない。相手を食わなければ生きていけない、世界に、愛の存在を導くための、創造の神のしかけなのではないかしら。
セックスという現実の中で、エゴと愛は対等になる。相手を好きにならなければ、それはできないから。
しかし人間は、恋というものの中にも、優劣の関係をつくりたがります。愛を支配したい。相手の魂と生活力を奪い、何もかもを支配して、それをいつでもしぼりとれる税金のごとき、簡単なものにしたい。男も女も、相手から奪うことだけに専念し始める。それで、恋愛とセックスの問題は、とても汚く、陰湿な問題になってしまった。
だから孔子も、なげくばかりだったのでしょう。
このへんで、男性も女性も、真剣に考え直さないといけませんね。