飽食終日、心を用うるところなきは、難きかな。博奕なるものあらずや、これをなすはなお巳むに賢れり。(陽貨)
一日中、飲み食いばかりで、ちっとも頭を使わないものほど、ひどいのはいないなあ。サイコロ遊びなんぞあるが、あれでも、なんにもやらないよりは、よほどましだ。
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昨日と違い、これは孔子の生の声、という雰囲気です。よっぽど、ひどい場面に遭遇したのでしょう。おもしろい人間はたくさんいるが、これはどうにもならん、というのも、中にはいたのでしょうね。
わたしもしみじみ思うことがあります。何にもしない人のほうが、悪いことをする人よりよっぽどひどい。悪いことをしてしまった人は、それは悪いですが、それでも、ここで何とかしなければいけない、というときに、何とかするための経験知識が、何かをやっている過程でそれなりに備わるもの。それは、ある程度、その人が学びをはじめたときに、役立つものとなる。とにかく、何かをやったということが、形になって残っている。バカなことでも、それはそれなりに、自分の頭と心を使ったということなのです。
何のためにそんなことをしたのか。そのとき自分は何を感じていたのか。すべて自分の中に残っている。それが、大事なのです。
だけど、なんにもしなければ、なんにもない。いったいなぜ、その頭がついているのか、何で生きているのか。考えることさえしない。いや、考えることから、逃げている。自分はなぜ生きているのか、ここにいるのか、そんな疑問から逃れるために、ただ飲み、食う。
なんにもない、なんにもしない、おれたちはなんのためにここにいるのか。そんなことをかんがえれば、苦しいだけだ。飲んで食って忘れろ。なんでもない、なんでもない、みんな、ばかばっかりさ。
ちょっと昔に、グルメブームなどありましたね。美食評論家だの、料理人漫画だの、流行りましたが、わたしはあれも、この一種だと感じていました。文明が発展し、人々の暮らしはかなり楽になり、派手になった。いい家、きれいな服、かっこいい車、かわいい恋人、かなり思い通りにできるようになった。さてそれで、何をするのか?と考えたら、ほとんど何もなかった。ほしいものはあらかた、手にいれてしまった。これから何があるのかと考えたら、もう何もない。
そうなると人は、食に逃げるようになる。肉体的感覚の中にしびれこんで、魂のあこがれを自ら殺そうとするのです。20世紀の末、日本人のほとんどは、そんな感じになっていた。幸せそうに見えて、ほんとうはとても苦しかったのです。
しあわせのはずなのに、なぜなんだ。苦しい、つらい、さみしい。
それをごまかすために、あらゆる美食を求める。フォアグラ、ヒレステーキ、職人のラーメン、大トロの刺身、一杯千円のコーヒー。迷いに迷った人間たちのなしてきた、麗しくも悲しい職人芸たち。すべて胃袋の中に消えていく。なんのために、それはあるのか。おまえは、いるのか。
心は、どこにいったのか。
わたしは、だれなのか。
なにもかもあるのに、なにもない。なにもない。
なにもない。