宰予昼寝す。子曰く、「朽木は雕るべからず。糞土の牆は、杇るべからず。予においてかなんぞ誅めん。」子曰く、「始めわれ人におけるや、その言を聴きて、その行を信ぜり。今われ人におけるや、その言を聴きて、その行を観る。予においてかこれを改む。」(公冶長)
弟子の宰予が昼寝をした。先生はおっしゃった。「腐った木は、細工物には向かない。臭い糞土は、壁塗りに使うことはできない。昼寝をするやつなんぞには、何を言っても無駄だ。」先生はまたおっしゃった。「わたしは最初、人のことばはそのまま真実だろうと信じていたが、今はことばだけでなく、その行動も見るようになった。宰予のせいでこうなったのだ。」
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有名な「宰予の昼寝」ですが、もちろんわたしは、これは孔子のことばではないと思っています。これは、後世の、少々短気な儒家が、論語の編集の折に付け加えたものだろうと思います。
古代の中国では、夜の明かりは、月星か灯明くらいしかなかったでしょうから、昼間に寝ることには、今よりはずっと罪悪感の強いものだったろうと思いますが、ここまで怒るのは、ちょっとおかしい。たぶん、弟子を怒ってしまった先生にも罪悪感があったのでしょう。ことばの大半は、怒ったことの言い訳になっています。
こんなことになったのも、みんな宰予のせいなんだ。
虫の居所でも悪かったのでしょうか。そういうことはありますね。それで、昼間っから寝ている弟子に当たってしまった。そうしたら、弟子の顔が、なんでそんなことで怒るの、この先生はあんまりいい先生じゃないな、て感じに見えたんでしょう。そこで威厳を正すために、言いつのってしまった。そしてみんな、弟子のせいにしちゃった。
それが本当はとても苦しかったので、これを孔子のことばにして、なんとか自分が正しい、にしたかった。というとこじゃないかな。推測ですけど。
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やんぬるかな。われいまだよくその過ちを観て、内に自ら訟むる者を見ず。(公冶長)
やれ、わたしはいまだに、失敗をしたら、自分が悪いのだと反省するものを見たことがないぞ。
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時代が進むと、儒家の先生にも、いろんな人が出てきたんでしょう。論語の面白いのは、こういう人間の、アホっぽいものもまぎれているとこなんです。ああ、昔の人は、こんなことやってるよ。て感じで。これはまだかわいいから、許せるほうですけど。
安心してください。孔子は昼寝くらいでは怒りません。孔先生だったら、だれかが昼寝をしているのを見かけたら、しょうがないなって感じで、笑うくらいですよ。
それに昔と今では、違いますから。
現代は、昔と比べれば、人類のストレスははるかに苦しいものになっています。文明が発達して、便利になっているというのに、人間は計り知れず苦しくなってきている。ありとあらゆるものが、激しく傷つけあっている。それも、魂の奥深いところまで、互いに傷つけ、つぶしあっている。自分の、あるいは他人の、存在そのものがいやだ、という人間が増えているのです。
こんな時代に、昼寝をするな、というのは、酷です。疲れきっているときは、自分を休めていいんですよ。がんばり過ぎないほうがいい。
もっとも優しい愛の神の膝元に甘えて、少し休んだほうがいい。
そういうときが、今はたくさんあります。
現代は、それが、人間にとって、とても大切なことのひとつになっています。