毎年夏休みの時期になると、我が定期購読週刊誌「週刊東洋経済」では著名人
(学者・経営者)の薦める本が載る。今年について言えば「経済界一の読書家が
薦めるこの夏の必読書」として伊藤忠商事社長丹羽宇一郎氏の薦める5冊の本
と100人の学者・経営者が選んだ「経済・経営書ベスト100」である。
こうしたアンケートで上位に上がるのは決して時流の書だけではなく、『雇用・利子
および貨幣の一般理論』や『資本主義と自由』など古典的著書も少なくない。
小生が興味を惹かれるのは『さらば財務省』(高橋洋一)、『暴走する資本主義』
(ロバート・B・ライシュ)、『反貧困』(湯浅誠)などである。
毎日が日曜日の小生にとって、「夏休み」という現役社会のシステムはいまや殆ど
意味を成さない。娘夫婦・孫たちが大挙して押しかける豆台風来襲シーズンとし
だという実態は間違いなくある。したがって夏休みになったら普段なかなか読め
ない本を、じっくり読みたいという意味での「夏の必読書」をあげるまでもなく、常
に10冊程度の本を手元に置いて、時間があればページをめくるという生活なの
で、夏休みだからといって「集中」とか「じっくり」という読み方はしていない。
先ごろどういう加減か耳鳴りを感じ、医者に疲労・ストレス・睡眠不足当が原因と
いわれる「とつなん」を告げられ、「まずしっかりと睡眠をとって、うろちょろしない
で「安静」にしなさい」といわれた。「安静」については、TVも読書もだめ、静かに
寝て一日を過ごさなければいけないという人もいれば、運動や出歩きは止めて
家で静かにしておればよいという人もいて、都合のいいほうを採って、寝転んで
本を読むことにした。
難しい本はストレスの原因になりかねないので、時代物の活劇本がいい。幸い
手元にはリクエストして手に入れた「遊女(ゆめ)のあと」(諸田玲子)と「浄瑠璃坂
の仇討ち」(高橋義夫)がある。
◇「遊女(ゆめ)のあと」諸田玲子著2008.4新潮社(1,900円)
著者諸田玲子氏については、日経新聞に「奸婦にあらず」が連載され関心を
持った作家である。
この作品も北海道新聞、中日新聞、東京新聞、西日本新聞に18年11月か
ら19年12月までほぼ1年間連載されたものを加筆訂正しハードカバーで刊行
された。
徳川御三家の将軍位争いは有名で、とりわけ尾張徳川七代藩主徳川宗春と
八代将軍吉宗との確執は時代小説の格好の題材で、いくつもの作品になって
いる。
この作品は女性作家らしく主人公の一人は女性。物おじしないというか前向き
というか、身を置く境遇の中で積極果敢に出来事に取り組んでいくのがいか
にも九州女らしい。ひょんなことから外様福岡藩の漁師の妻「こなぎ」は、密貿
易の船から落ちた清国の若者と一緒に大阪に逃げることになり、幕府隠密を
かわしながら大阪・名古屋へと向かう。
もう一方の主人公高見沢鉄太郎は江戸の下級御家人。幕府から「女敵討ち」
を仕組まれやはり尾張徳川との対決を迫られる。この間紀州と尾張の将軍争
いの渦の中に巻き込まれた男女二人の主人公が、いつしか心を通わせる仲と
なり、しかし結局は結ばれないといった、すれ違い、再会と別れなどがあって
エンターテイメントとしては結構出来がよい。
時代は享保17年(1732)頃。舞台は江戸と九州福岡藩、大阪、名古屋尾
張藩。途中かつて歩いた東海道の関宿、桑名宿、宮宿佐屋街道などが舞台
として登場し楽しい。
◇「浄瑠璃坂の仇討ち」高橋義夫著1998.7文芸春秋社(2,381円)
世に三大仇討ちと呼ばれるのは伊賀越えの仇討ち(荒木又右衛門)、曽我
兄弟の仇討ち、赤穂浪士の仇討ちであるが、中でも忠臣蔵として知られる赤
穂浪士の仇討ちは有名であるが、どうやらこの仇討ちのお手本は忠臣蔵に
先立つこと34年、寛文8年(1668)の「浄瑠璃坂の仇討ち」であったらしい。
不明にして知らなかったが、「浄瑠璃坂仇討ち」は、赤穂浪士の討ち入り事件
が起こるまではわが国最大の仇討ち事件だったのだ。
仇討ちは明治になって「仇討ち禁止令」が出るまで武家社会を縛った。したくも
ない仇討ちを、親類縁者からせっつかれていやいや敵討ちの旅に出た者が
沢山いたに違いない。討つほうの苦難。討たれる側の不安。人生の大半を
仇討ちの相手を追うことに費やした人もいるはずだ。復讐も国家が肩代わり
することになった。それでうまくいっているかというとそうでもない。裁判制度も
手ぬるくて、つい自ら復讐に走りたくなることもあるだろう。
宇都宮奥平藩11万石は将軍家とは因縁深く、長篠の合戦の折三州長篠城を
守っていた奥平定昌は、武田勝頼の猛攻によく耐え、味方を勝利に導いた。
信長からは「古今稀なる大功なり」と、信の一時を与えられ信昌と改めた。以
前武田家に人質として差し出されていた妻は勝頼に磔にされて殺されてしま
ったので、家康は娘亀姫を輿入れさせ姻戚とした。
このとき信昌の一族7人も召しだされ、その功績により孫子の代まで、目通り
許すとの言葉を掛けられ、以後陪臣ながら見参を許される特別な存在となっ
た。
ところがこの7家のうち筆頭家老奥平隼人と家老奥平内蔵丞は、従兄弟同士
ながら仲が悪く、事あるごとに対立し藩内に波風を立てていた。
さて、信昌の孫に当たる藩主忠昌が亡くなった。二十七忌法会の直会の席で
隼人と内蔵丞が些細なことから諍いとなり刃傷沙汰に及ぶ。深手を負った内
蔵丞は喧嘩両成敗を願いつつ腹を切る。しかし藩主の覚えめでたい隼人は
お咎めなし。幕府の裁きは「内蔵丞は死に損、隼人の扱いは藩の自由に」と
いう裁決となったからだ。
隼人は改易となったものの、死に損となった上家禄没収・追放の身となった
内蔵丞側は収まらない。息子の源八を初め叔父の夏目外記、甥の奥村伝蔵
など一族は、内蔵丞の仇を討つ覚悟を決め宇都宮を去る。
隼人は一時壬生藩に身を寄せた後信州高島藩に匿われていたが、主馬は
減封となり山形に移された奥平藩の要職に就いていた。先ず隼人と一緒に
内蔵丞を手にかけた弟の主馬を討つ。
内蔵丞一族の追及に恐れをなした隼人は江戸に逃れ、大身旗本大久保家に
身を寄せる。
臥薪嘗胆3年の月日を、敵討ちの準備と隼人の匿われた鷹匠頭戸田七之助
宅の見取り図入手に費やす。
ついに寛文8年(1668)2月3日未明、源八以下一党43名は市ヶ谷浄瑠璃坂
の戸田邸に潜む隼人を急襲する。しかし隼人はこの日外出していたため、そ
の父心斎らを討ったものの肝心の敵隼人を討つこと叶わず引き上げる。
途中牛込御門近くに至り返り討ちを図る隼人らに遭遇する。
勝負はあっけなくついた。源八らは仇討ちの本懐を遂げ、宇都宮興禅寺の内
蔵丞の墓前に隼人の首を供えた。この後一党は彦根藩大老井伊直澄の上
屋敷に出頭し裁きを待つ。
本来徒党を組んでの敵討ちは禁じられており、評定は死罪が大勢であった
が直澄は将軍家綱の裁可を得て源八、伝蔵、外記3名に中間6名を付け9名
を遠島とし、伊豆大島に流刑が決まった。
江戸市民が喝采した「浄瑠璃坂の仇討ち」は公平を欠く裁きへ鬱憤がある。
苦節○年、本懐を遂ぐことへの賞賛もある。幕府の裁決もこうした市民感情
は無視できなかったのだろう。この後流刑者9名は6年後許され、しかるべき
大藩に召抱えられている。
以上が史実のおおよそであるが、小説「浄瑠璃坂の仇討ち」はこの史実に
奥平藩主忠昌に殉じた杉浦右衛門兵衛とその一族、武芸道場の門下生ら
が敵味方に分かれる苦衷、江戸での探索と雌伏3年の苦労、若き剣士と
その許婚の苦渋の別離等々が絡めて語られ、飽きさせない。
忠臣蔵は仇討ちの代表格であるが、江戸と宇都宮、幕府と小大名など舞
台と環境に違いはあるものの、彼らが復讐プランを練った際にはこの仇討
ちの経緯は大いに参考になったはず。
(この本も下野新聞、河北新聞、北日本新聞、サンパウロ新聞など17紙に
掲載された。)
歌舞伎「浄瑠璃坂幼敵討」があり、映画では「復讐浄瑠璃坂二部作」
(1955=主演嵐寛)がある。
※浄瑠璃坂は現在の新宿区砂土原町にある。