◇『沈黙法廷』
著者:佐々木譲 2016.11 新潮社 刊
佐々木譲の作品では珍しいリーガルサスペンス。作者は巻末で弁護士活動と公判場面の描写について助言
と教示を戴いた弁護士に謝辞を述べている。
ジョン・グリシャムやジェフリー・アーチャーなど本格法廷ものにはとてもかなわないにしても、法廷で
の審理場面に相当ページが割かれていて、緊迫場面の乏しさに不満が残ったがまずまずの出来栄えである。
ストーリーは比較的単純である。東京都北区赤羽で独り暮らしの老人が扼殺された。室内にあったと思わ
れる3百万円の金がなくなっている。最後に被害者に会ったと思われるホームヘルパーの女性山本美紀が疑
われる。身柄を押さえようと住所地に向かったところ埼玉県大宮署の刑事が先回りしていて山本の身柄を押
さえるという。どうやら同じような事件の容疑者らしい。すわ連続不審死事件か。
結局山本は大宮署が拘引する。
赤羽署には警視庁捜査1課から小生意気な若造が出張って来た。物証もなく状況証拠だけなのに山本を犯人
と決めつけ、大宮署の証拠も使いながら自供をとればよいと強引な捜査を進める。
ところが埼玉地検では処分保留で山本を釈放する。一方東京地検では物証は乏しいまま逮捕状を取り保釈
後直ちに山本を拘留した。
強盗殺人罪の罪刑は死刑か無期懲役。殺人容疑者山本は依然として犯行を否認する。
刑事と検察官のやり取り、地道な捜査状況などは丁寧に語られるが、この辺りは警察小説の旗手らしく実
に手堅い。
個人営業の家事代行業を営む山本美紀は、赤羽の事件も含めこれまで顧客との不審な金銭上のやり取りが
あり、状況として疑わしいところもあるが物証も乏しく殺人の動機も今一つ決定的なものがない。しかし東
京地検は容疑者否認のまま起訴に踏み切った。
そして公判。
訴訟王国・米国のリーガルサスペンスは検事・弁護士の丁々発止の駆け引きや裁判官の容赦ない裁定など
はサスペンス満点であるが、日本の法廷ではそんな緊張感はあまり期待できない。その証拠に本書では検事
が証人尋問でフライイングし、弁護側から「異議あり」の申し立てがあった際に裁判官が「質問を変えてく
ださい」と検事を指導する。そんなことが3度にわたり、裁判官はその都度「弁護人の異議を認めます。検
察官は質問を変えてください」と指導している。多分アメリカの法廷では3度目には「いい加減にしないと
法廷侮辱罪ですぞ」ときついお咎めがあるところだ。お国柄である。なお「要約不相当」という専門用語は
初めて知った。どうやら事実関係を適切に要約していないときに相手方に指摘する際用いるらしい。
高見沢弘志という青年が東京湾フェリー乗り場で人を待っている。知り合って5カ月の彼女・中川綾子と
初めての遠出で、ついでに実家の両親に紹介しようと持ち掛けた旅である。
しかし約束に時間に彼女は現れない。電話もない。携帯にも応えがない。次の便を見送った。その次も
その次も。思い切って会社に電話をしてみた。
「中川綾子?そんな人はいません」
これは本書冒頭のくだり。実は極めて重要なメッセージである。
「無罪を主張する被告は証言台で突然口を閉じた。有罪に代えても守るべき何が、彼女にあるのか。」
これは本書の帯の文言である。まさに本書のミソの部分。
「答えたくありません」
まさか、ここで被告が黙秘権を行使するとは。弁護人も呆気にとられる。本筋でない尋問に対して黙秘
の必要はないのにどうしたことか。
・・・・・・
初めて心を通じ合った人との悲しい断絶、女心の切なさ。それが本書の主題か。
これ以上本書の内容に立ち入るとネタばれになって、せっかく読んでみようと思った方の興を削ぐこと
になるのでここまで。
最後の犯人の場面では後出しじゃんけんのようでちょっとがっかり。一方中川綾子というネット上でうま
く使いまわしされる架空の存在については、なるほどと感心した。
(以上この項終わり)