読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

『南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経』 

2019年06月07日 | 読書

◇『南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経
        
                        著者:平岡 聡  2019.3 新潮社 刊 (新潮新書)


 

  仏教にしろ基督教にしろ格別の信仰心を持っているわけではないが、日ごろなんとなく
疑問に思っていたことを平易に解説してくれる新書が見つかった。著者は京都の平岡先生。
 葬式や法事などに際し仏教宗派によって形式が異なり、浄土宗は南無阿弥陀仏を称し、
日蓮宗は南無妙法蓮華経を唱えるということは知っていたが、なぜかということは知らな
かった。
 かつて浄土真宗親鸞の説話をまとめた『私訳歎異抄』(五木寛之著)を読み、いたく感
銘を受けたが、この度『南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経』を手にしたのも純粋に知的好奇
心に依るもので信仰上の動機はない。

  親鸞を遡ること40年。のちに親鸞の浄土真宗につながる法然の念仏の教理と日蓮の唱題
の教理・理念の違い、仏教世界での両派の闘い、国家権力からの迫害、迎合と抵抗なども
含め、両派を生み出した歴史的背景も知った。
   時代小説などで戦国時代における浄土真宗の隠然たる勢力や一向一揆の威力などが有力
なテーマになっているのがあるが、後にあらわれた日蓮宗との対立関係と合わせて考える
とまた興味深い。

  本書では序章で法然と日蓮の生涯と思想形成の流れ、第一章で念仏と唱題—専修一行へ
の道、第二章で無量寿経と法華経ー所依の経典、第三章 神祇不拝と法華経護持ー神の存在、
第四章 個人対社会ー国家や社会との関係、第五章 来世と現世―浄土の在処、第六章 諦念と
格闘—苦の受容、第七章 否定と肯定—自己認識 最終章 法然と日蓮―二人の共通点 と仏
教両派の違いが丁寧に説明されている。

  浄土宗と日蓮宗の違いを端的にいえば、浄土へ行くための行(専修一行)としては、法然
の称名念仏(何人も南無阿弥陀仏を称すれば往生できる)、日蓮は専修唱題(何人も南無妙
法蓮華経を唱すれば往生できる)である。
  帰依(南無とは帰依を意味し、英語で言えばembrace
)の対象は法然は<阿弥陀仏>、日
蓮は仏陀の到達した教法<法華経>である(因みに念仏とは「南無阿弥陀仏」を声を出して
称えること、唱題とは「南無妙法蓮華経」を声を
出して唱えることを意味する)。
  また、国家や社会との関係でみると法然の理念では宗教的平等が根底にあり、国家の関与
する余地はない。これに反し日蓮は「立正安国論」に見る通り積極的に国家の関与を認め、
浄土宗のような邪教を排除しないと災難が頻出するなどと説く。戦後創価教育学会の誕生、
公明党の政界進出などはこの流れである。

 法然はこの世は穢土。厭離穢土・欣求浄土、念仏を称し功を積めば、死んで極楽浄土
行くという二元論であるが、日蓮は違う。現世の娑婆世界こそ浄土であり、この世に正法
を樹立しこの国を安寧にするという考えである(ただ流罪で
佐渡に渡ったのち「霊山浄土」
という観念が生まれた)。

 このあと法然の自己省察、自己否定など自己認識の推移、日蓮の自己肯定と懺悔という自
己否定の経過、罪業苦、末法苦、代受苦などおなじみの言葉が解説される。
 
仏教世界では独自の時代的危機感がもたらした歴史観があり、正法、像法、末法との時代
区分がある。今は末法時代にある(平安末期=1052年が末法元年であり1万年続く)とされ、
辿り着いた理念に違いはあるが、万人救済の道を真摯に追い求めたのは法然と日蓮の大いな
る共通点であろう。
                              (以上この項終わり)


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