読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

東山 彰良の『流』  

2019年06月23日 | 読書

◇『』  著者:流山 彰良  2015.5 講談社 刊

  
 初めて読む作家の作品。第150回直木賞受賞作品です。
 なぜ今頃この本を読む気になったかというと、先々週のこと、購読紙の文化欄で東山さん
が「九十九の憂鬱」と題して書いたエッセイがとても印象深くて、そういえばお名前は目に
していたけれどもまだ読んでいなかったことを恥じて、図書館で検索したらこの本は競合者
がいなかったのでリクエストしすぐ手にしたのです。

「九十九の憂鬱」で東山さんはこんなことを言っています。「家族を養わなければならない
という重圧にほとんど押しつぶされそうになっていた。私はちっぽけで、だから怒りっぽく、
自分を取り巻く現実にいら立ち、酒ばかり飲んでいた。(中略)そこで私は小説を書き始め
た。…書いても書いてもさっぱり売れなかったが、…ただ、次の一行を書きたいという想い
だけがあった。作家になってからも、私は相変わらずちっぽけで、怒りっぽく、酒ばかり飲
んでいる。」
 ここで私はチェホフがどこかで書いていた教育に関する一節を思い出す。「よく噛むんだ
よ、とお父さんが言う。そこでよく噛んで、毎日2時間ずつ散歩して、冷水浴をした。だが
やっぱり不幸せで無能な人間ができ上った」。
 この物言いがなんとなく似通っていて思わず微笑んだのです。
 世の中どんなに頑張ってもどうしようもないことがある。ちびということで劣等感があり
怒りっぽい作家。でも小説を書くことで、こうした劣等意識も多少は薄れたのではないだろ
うか。

 さて、次に移ろう。「破綻しかけている小説に激しい焦燥感をかきたてられているときも
私は仕事に出かけて行った。好きでもない仕事に縛り付けられているのは何も私一人だけだ
はない。好きなことを一つやるためには、好きではないことを九十九もやらなければならな
い。ときにはなんの意味も見出せないその九十九のしがらみが、本当に好きなたったひとつ
のことを支えている—今もその考えに変わりはないけれど、歳をとるにつれて私は息切れが
してきた」
 これが「九十九の憂鬱」の正体である。東山氏は翻訳や通訳の仕事をしながら小説を書い
ていたのです。好きでもないのに家族のために。なるほどと頷きました。

 作者は日本人だと思っていたら、両親もご本人も台湾人でした。9歳ころから日本に住んで
いるので日本語は堪能です。祖母に怒られて台湾語(中国語?)を話そうとしたけれどうま
くいかなかったそうです。

 そこで『流』のこと。とにかく面白いです。作者は読者を楽しませるためのコツを知って
いて、決して飽きさせることがありません。内容としては自身の青春時代をベースに書いて
いるなとすぐにわかりますが、たいして長く住んではいない台湾は台北の猥雑な下町の様子
やそこに住む祖父両親叔父さんたちなど住民の姿、とりわけ大陸で国共内戦の末に大陸から
台湾に逃げ込んだ祖父やその友達らの姿がえらくリアルに描かれていています。
 回顧する<わたし=薄秋生>はすでに一児の父ですが、小学校からのわるガキのたちとの
武勇伝などは実に生き生きと描かれているし、幼馴染で結婚を意識していた仲良しの毛毛
(マオマオ)との痛々しい失恋話や尊敬する祖父を殺した犯人探しに執念を燃やす健気さも
感動的です。何しろ語り口がテンポよくまた表現力が豊かで、また諧謔的で笑わせます。

作品の最後に<わたし>は述懐します。
人生は続いてゆく。この先何が待っているのか、私にはわかっている。だけど今はそれを
語る時ではない。そんなことをすれば、この幸福な瞬間を汚してしまうことになる。だから、
今はただこう言ってこの物語を終えよう。
 
 あの頃、女の子ために駆けずり回るのは、私たちの誇りだった。)
                              (以上この項終わり)

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