◇『とめどなく囁く』
著者:桐野夏生 2019.3 幻冬舎 刊
これまで読んだ桐野夏生の作品では結構ダークで毒のあるものが多かった。この作品は意外で、
ゆったりとした運びだし、いつもと雰囲気が違う。いつ桐野ワールドに変身するのか、期待しな
がら読んでいるが展開が緩慢でいらいらするほどである。終盤でやっと来たーといった調子で落
ち着いた。
今回の作品は割と素直な展開でわかりやすい。しかし心理面では登場人物を丁寧な観察眼で追
っている感じである。
主人公の早樹は結婚3年目にして夫の庸介が相模湾に釣りに出て行方不明になった。残され
たボートの様子からは海難事故とも、自殺とも決められなかった。
7年待って失踪宣告を受けた。その後望まれて裕福な、引退した実業家の後添えとなった。夫の
克典は41歳の早樹とは31歳年長の72歳である。
何不自由なく平穏な生活を送っていた早樹は、元夫庸介の母親に呼び出されて「息子に似た男性
を見た」と告げられた時から彼女の心は微妙な揺らぎを見せ始める。おまけに早樹の父までが「家
の近くで庸介君のような男を見たと言い出す始末。
失踪宣告で区切りがついたはずだったのに、ふたたび疑惑が再発し始めたのである。困ったこと
に元夫の庸介の姿が懐かしく思えたりすることで早樹の戸惑いは深くなるばかり。もしかすると庸
介は計画的な失踪であり生存しているのかもしれない。
早樹はサスペンスフルな状況を解明するために庸介のかつての釣り仲間を訪ねて失踪当時の庸
介の様子を知ろうとする。聞き取りが進むにつれて、次第に当時早樹が知らなかったいろんな事情
が浮かび上がってくる。一番の親友と思っていた美沙すら庸介らと裏切り的行動をとっていたこと
を知り怒りを抑えきれないが…。
克典・早樹らの、とりわけ早樹の心理描写が巧みである。優しそうに見えて冷酷な今の夫の内側
に入れこめないもどかしさ、失踪した元夫への怒りと懐かしさ、揺れ動く早樹の心の裡にどんどん
分け入っていく描写が巧みである。
早樹は調べるのはこれが最後と、接点になりそうな豊橋の釣り堀場に出かけ庸介の足跡らしきも
のを得る。死を偽装してまで姿を隠沙さなればならなかった事情とは何だったのか。
終段における庸介と思われる無言電話での早樹の語り掛けが、早樹のしたたかさを見せて面白い。
これは庸介に違いないと確信している早樹は思いの丈を浴びせかける。蘇った死者に対する怒りと
安堵。早樹の最後の決めセリフ「いなくなってください」は迫力がある。
死を心に決めた庸介の裏切りの告白の手紙「許して下さいとは言いません。許さないでください」
もすごい。
(以上この項終わり)