弔 辞
故上條庄三郎翁の御霊前に深く哀悼の言葉を捧げます
上條庄三郎さんには 私の選挙のたびに 今井の挨拶回りのご案内をいただいてきました あの大きな声で玄関先から「上條庄三郎だが いたかね」と声をかけ 誰からも慕われていたその姿が昨日のことのように思い出されます
晩年は お家にお伺いすると 思うように身体が動かなくなっても 居間で好きな相撲を見ていましたね
今年 二月にコロナで入院しめっきり身体が弱くなった時も 奥様の献身的なお世話の中で すった長いもと卵で驚異的な回復をみせました 私が訪ねたときは ベッドの横で立ったり座ったり身体を動かしていましたから まだまだお元気でおられるものと思っていました
それから八月お盆過ぎに転倒し 松本医療センターに入院 退院後自宅で療養をつづけてこられましたが 十一月八日帰らぬ人となりました 奥様から「おじいちゃん、ついにいっちゃったよ」とお電話をいただきました
上條庄三郎さんは 昭和八年に今井同村に生を受け 相撲をとっていたというお父さんから頑丈な身体を受け継ぎ 昭和二七年長野県庁に入職 当時の松筑地方事務所を皮切りに 本庁の人事課松本地方事務所労政課などに奉職 平成九年岡谷保健所次長を最後に退職されました
退職後も信州博覧会テーマ館館長 中信労政事務所・中小企業労働相談員 ユニオンサポートセンター初代相談員として 様々な県民の相談にのっていただきました 本当に面倒見のいい人でした
地域にあっても 今井地区こども会 鎖川右岸土地改良区 今井児童センター運営委員会 今井福祉ひろば事業推進協議会 今井地区堂村町会長などを歴任されてきました
そうした人望の厚さから、平成十一年松本市議会議員に立候補し当選 その時のスローガンは「ヒューマンな心で支えあう市政を」というもので 当時パンフレットをつくるお手伝いをしていた私に「中川さんなあ ヒューマニズムが大切なんだ」とお話をしてくれたことを今でも鮮明に覚えています
その言葉の通り 上條庄三郎さんは労働組合でも活躍され 昭和五十二年長野県職員労働組合書記次長、昭和五八年松本地区評事務局長 平成九年から平成二一年まで社民党松本総支部副代表 社民党長野県連合役員を担っていただきました
上條庄三郎さんの叔父にあたる上條愛一氏は戦後社会党から参議院全国区で二回当選 その後民社党の結成に関わった方で その姿からも影響を受けられたものと思われますが 文字通り「人間愛」に満ちた人生を送られてきました
長野県職員労働組合松本支部の書記を勤めてこられた久保田香澄さんは訃報を聞いて「いつも書記局によっていただき、おうちでつくられた野菜や果物を差し入れしてくれ、“組合は人だよ”と教えていただきました」と思い出を語ってくれました。
そうそう 庄三郎さんは宴会などで場を和ますことがお上手で 歌あり 手品あり ジェスチャーゲームあり 踊りありと多芸な方でもありました
庄三郎さん もう一度見たかったなあ 寂しいです
奥様の悦子様とは 奥様が当時勤めていた豊科にあったトーヨーボーで卓球を通じて知り合い 昭和三五年に結婚して以来 六四年にわたり献身的に支えてくれた奥様に庄三郎さんが枕元で最期に 感謝の言葉を述べられたとお聞きしました 奥様をはじめご家族の皆様の悲しみはいかばかりかとご拝察を申し上げ 心よりお悔やみを申し上げます
上條庄三郎さん あなたが貫いてきた「人間愛」を私も深く心に刻み あなたが訴えてきた「誰もがいたわりあい ささえあう社会」となるよう後輩の一人として努力することをお誓いしお別れの言葉といたします
上條庄三郎さん ありがとうございました
安らかにお眠りください
令和六年十一月十二日
社会民主党長野県連合代表
長野県議会議員 中川博司