小塚啓市さん、余りに突然のお別れに今も信じられず、ただただ呆然とするばかりです。
一昨日、昼過ぎに松本市内で、あいさつ回りをしている時、事務所から電話が入り、「小塚さんが亡くなった」と聞かされ、思わず「ウソでしょ」と聞き返しました。
つい、三月一〇日に波田町のあいさつ回りを一緒にして、「またお願いします」と言って、小塚さんから「いつでも、いいよ。言っておくれ」と別れたばかりでした。今から思えば、それが小塚さんとの最後となってしまいました。
信じられず、疑心暗鬼のまま、時ならぬ雪が舞う中を、すぐさま自宅へ駆けつけましたが、すでに忌中の幕がかけられていて、「まさか」の思いが「不安」に変わり、通された居間に静かに眠っている小塚さんを見て、言葉を失いました。
なぜ、どうして・・・「軽い肺炎で入院して、自分で退院の日を決めて、昨日は歌も歌っていたんです。当のおじいちゃんが一番びっくりしていると思います」とご家族の方からお聞きしました。
「無理をさせてしまったのではないか」と、ご家族の皆さんにお詫びいたしました。
ご家族の方から「おじいちゃんは、中川さんとあいさつまわりをすることを楽しみにしていました。今度は、どこを回ろうか、お昼は何を食べようか、楽しそうに準備をしていました」と声をかけていただきましたが、小塚さんの好意に甘えるばかりで、配慮が足りなかったのではないかと申し訳なく無念でなりません。
私が、九月に衆議院選挙への出馬表明をして以来「今度は勝たなければいけない」「今の政治を変えなければいけない」と、毎月一回のペースで半日ずつ波田町の支援者の皆さんのところへ挨拶に連れて行っていただきました。
ひざの調子が悪く、杖をつきながら訪ねていくと「まあ小塚さんじゃないかね、おはるかだね、元気だったかね」と誰もが、暖かく迎えてくれ、小塚さんも「いやー、奥さんも元気だったかね」と声をかけあう姿は、小塚さんの長年のお付き合いの深さに温かみを感じました。思えば、これが小塚さんから皆さんへのお別れのあいさつ回りとなってしまいました。
ある時は、若沢寺あとへ赴き、波田町の歴史をお聞きました。あっそうそう、その時一緒にとった写真を私のブログには掲載しましたが、小塚さんには渡せずじまいとなってしまいました。今日、ここでお渡しします。
お昼は、私がそば好きと知って、下見までして案内をしていただきました。小塚さん、「そば、おいしかったですね」また、食べに行きましょうよ。
小塚さん、まだみんなに挨拶がおわっていないんじゃないですか?
小塚さん、退職者会の皆さんやお仲間の皆さんと、またいっぱいやりましょうよ。小塚さんは日本酒ですよね。
小塚さん、お孫さんたちと旅行に行くところも、まだまだ、たくさんありますよ。前に京都に行ったことをあんなに嬉しそうに話してくれたじゃないですか。
ご家族を愛し大切にしていた小塚さん、いつかお孫さんが「私は小塚啓市の孫です」と誇らしげに語ってくれていましたよ。
誰からも敬愛され、親しみをもたれていた小塚さん。
いつもにこやかに、そして、おだやかに、時にユーモアたっぷりに語ってくれた小塚さん。
小塚さんの命はご家族の皆様に受け継がれ、小塚さんの遺志は必ず私たちが引き継ぎます。
小塚さん、さよならは言いません。きっと、どこかで私たちを見守っていてくださると思いますから。
今は、ただただ感謝を申し上げるばかりです。
小塚さん、本当にありがとうございました。
安らかにお眠りください。