院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

天然痘根絶宣言に思う

2006-08-12 14:28:27 | Weblog
 生態系を語るときによく引き合いに出される話だけれども、昔のアメリカの公園でのことである。

 公園ではしばしばピューマが鹿を襲うので困っていた。そこでピューマをたくさん射殺した。そうしたら今度は爆発的に鹿が増え、公園の木や草が食べつくされてしまって、鹿が大量に餓死したというのだ。

 生態系を人間が浅はかにもいじると、とんでもないことになるという寓話のような話である。

 同じような例は日本にもある。ハブに困っていた人間が、ハブの天敵であるマングースを島に放した。結果はご存じのとおりである。

 生態系は精妙である。変にいじると必ずどこかに弊害が出てくる。

 絶滅危惧種を守れと叫ばれている。それは結構なことである。

 それならば、なぜ天然痘を絶滅させたのか?WHOは根絶宣言を出した。祝杯を挙げたかどうかは知らないが、少なくともそんな勢いだった。

 そこで私は考え込んでしまう。トキは絶滅させてはいけないが、天然痘ウイルスなら絶滅させてもよいのだろうか。

 天然痘ウイルスだって生物である。精妙な生態系の中で何らかの役割をもっていたはずである。絶滅によって、どこか思わぬところに弊害が出てくるだろう。それが何だかまだ分からないが、アメリカの鹿のように、人間という種が大増殖することは確かである。

多すぎる温泉旅館の料理

2006-08-11 17:46:34 | Weblog
 私は小食である。だからかえってバイキングが好きだ。むろん沢山食べられるからではなく、適量を食べて残さないですむからである。

 温泉旅館の料理には閉口する。これでもかと言うような料理の種類と量である。とても全部は食べきれない。力士でもなければ全部は食べられないのではないか。

 温泉旅館は「お客様には絶対に足りなかったとは言わせない」というコンセプトというか意地をもっているようである。残されることを前提として、料理を出してくるのである。アフリカでは飢えた子供がたくさんいるというのに、冥利の悪い話である。

 ついでに言うと、温泉旅館の料理はおしくない。見た目ばかり格好をつけて、材料は竹の子とか山菜で、元値は安い。海水魚の刺身が出てくるのも気に入らない。山奥で海水魚なんて食べたくない。当然まずい。

 また、パラフィンで暖める七輪のようなのが困る。「煮る」というのは料理の難しい技であって、修行が必要である。「煮る」という行為を客にまかせて、パラフィンに火をつけるだけですますというのは、どういう料簡か。

 だから私は温泉旅館に行きたくない。ホテルのようにレストランが別にあって、好きなものを適量だけ食べられるようなシステムなっていれば、行ってあげないでもないが。

また高校野球が始まった

2006-08-10 13:58:04 | Weblog
 私はプロ野球を見ない。そもそもルールをよく知らない。贔屓の球団もない。そういう者にとって野球放送というのは苦痛でしかない。

 したがって高校野球も見ない。地元の高校が出場するなら応援しようという気持ちが起きるかもしれない。でも、野球留学とかいって、いわゆる強豪校には地元の生徒より他府県の生徒のほうが多いと言うではないか。それでは興味が半減してしまう。

 プロ野球に比べれば、高校野球の力や技は圧倒的に劣るだろう。だから高校野球は、うるさいだけで、私にとっては一瞥にも値しない。

 早く高校野球が終わってほしい。たぶんこれは少数意見ではなく、日本人の6割以上がそう思っていながら、野球好きの人をしらけさせないために、言わないだけだと私は思う。

大女優・森光子さん

2006-08-09 17:45:50 | Weblog
 森光子さんは86歳とは思えない若々しさだ。美容整形でもしているのだろうか。

 森光子さんを嫌いだと言う人は少ないだろう。芸は逸品である。日常生活においても彼女は極めて評判がよい。他人に対する気働きがすごいのだという。決して天狗にならない。

 その辺りの事情は、脚本家の故向田邦子さんも書いている。とてもいい人なのだそうだ。ますます森さんが好きになってしまう。

 他人(素人)に対してとても横柄だという中村めい子や国生さゆりに、森さんのツメの垢でも煎じて飲ませたい。

 森さんが文化勲章受賞者だというのも嬉い。

アサクサノリ

2006-08-08 09:19:22 | Weblog
 アサクサノリとは浅草で穫れる海苔のことではない。アサクサノリという海苔の品種である。

 私が子供のころは海苔といえば全てアサクサノリだった。アサクサノリは蕎麦つゆに浮かべると箸ですっと切れた。今の海苔はビニールのように硬くて箸では切れない。海苔巻きを噛み切るのさえたいへんである。

 いつのころからか、海苔はすべてこのタイプになってしまい、残念に思っていた。

 だが最近、千葉県の市川市や鹿児島県の出水市でアサクサノリを養殖している人がいると聞いた。市川市の人には連絡がとれなかったが、出水市の人と連絡がとれた。

 でも、今年の分は全部はけてしまい。次は来年になるとのことだった。一枚500円だそうである。なじみの寿司屋に取り寄せてもらうことしたが、店の主人は「一枚50円の間違いじゃないの?」と驚いていた。

 来年になったら念願のアサクサノリが食べられる。何十年待ったことだろう。

モダンジャズのサウンド

2006-08-07 13:23:44 | Weblog
 最近、居酒屋がモダンジャズをBGMに使うのが流行しているようだ。それも60年代の演奏が多い。

 ジャズのサウンドが、クラシックやポップスとまったく違うことは、ジャズを知らない人にも分かるだろう。

 一番の違いは、ジャズではテンジョンという音を使うところである。もしドミソシ♭という和音を奏くとすると、その上のレやファやファ♯も使用する。そうすると緊張感が生まれるので、これらの音をテンジョンと呼ぶようになった。

 むろんドミソシ♭レファを全部奏くのではない。そんなことをすれば音が濁ってしまうので、適宜間引くのだ。ドは必ず間引かれる。たとえばドミソの代わりにミソレなどとやるわけである。

 この時にドがないと、演奏が間違っているように聴こえることがある。だから、ドはベースが奏くのである。

農耕民族と狩猟採集民族(精神障害者の社会復帰)

2006-08-06 06:19:39 | Weblog
 精神障害者の社会復帰の壁は世の強迫性にあると喝破したのは、恩師中井久夫先生である(『分裂病と人類』、東京大学出版会)。

 現代社会を見回してみると、強迫性に満ち満ちている。電車は時刻表どおりに正確に動く。家々はみな定規を引いたようにタテヨコ真っすぐである。机は正しく長方形で、曲がって室内に置くことは許されない――こういう性癖を強迫性という。

 それにひきかえ、狩猟採集民族を見ると、料理をする机は木を割っただけで、決して長方形ではない。住まいも枝や葉を組んだもので、やや歪んでいて、強迫的ではない。万事アバウトなのである。

 強迫的な社会を作るのは農耕民族の特徴である。彼らは精密な暦を作って決まったときに種をまき、決まったときに収穫をする。畝は正確に真っすぐで、等間隔に作られる。農耕民族は必然的に強迫的になる。

 一方、狩猟採集民族は、動物や鳥が動くかすかな気配に鋭敏である。だから弓矢で獲物を捕らえることがでる。また、雑然とした茂みに隠れていて、ほとんど見えないような芋の芽を目ざとく見つけて、地下の大きな芋を手に入れる。このような認知特性は狩猟採集民族に特有で、それがなければ彼らは森や草原で生きていけない。農耕民族にはこの敏感さがない。

 精神障害者の一部の人は、狩猟採集民族のような外界認知の仕方をするので、農耕民族的な強迫的社会への適応に苦労するというのが中井の説である。

 世界を眺めると、先進国はみな強迫的である。すなわち農耕民族的である。少し考えれば解ることだが、農耕は大勢が一糸乱れずに協力して初めて可能である。農耕民族には富が貯えられ、やがて国家ができる。それは狩猟採集民族にはかなえられない大プロジェクトであった。

 私はこの数万年間を、農耕民族が狩猟採集民族を滅ぼしてきた歴史だと見ている。農耕民族は一致協力してことに当たるすべにたけている。戦えば狩猟採集民族はひとたまりもなかっただろう。こうして農耕民族が狩猟採集民族を支配していった揚げ句の果てが現在である。われわれはみな、日本人も西洋人も農耕民族の末裔である。

 そんな時代に、狩猟採集民族的な特性をもった精神障害者は生きている。彼らに、この農耕民族的で強迫的な現代社会とどう折り合いをつけてもらえるか。社会復帰活動が直面している難しい課題のひとつである。

裁判員制度に思う

2006-08-05 13:24:36 | Weblog
 これから行われるという裁判員制度に私は反対である。

 アメリカ人で心ある人々は、アメリカの陪審員制度に反対している。素人に根回しが行われて白が黒、黒が白になることがあるのだそうだ。

 私がわが国の裁判員制度に反対するのは、自営業者の仕事が成り立っていかないからというのが理由のひとつである。もし私が裁判員になったら、その間、私の診療所は休業である。患者さんも困るし、私もスタッフも生活の糧がなくなる。

 反対のもうひとつの理由は、裁判員は無作為抽出されるために、暴力団員でも、ちょっと前まで援助交際をやっていたバカ娘でも裁判員になる可能性があるということだ。

 国家権力によって、私が裁判員に任命されたら、私は微罪でも死刑にする予定である。江戸時代には十両盗んだら首が飛ぶといわれた。

 このほどペルー人の某が、なんの落ち度もない日本の女児を強姦殺人しておいて、判決は無期だった。それはないだろう。死刑が当然である。最近の判例では、殺人の被害者が一人だけなら死刑にならないそうである。

 被害者の数で判決を決めるのか。私が裁判員になったら、コソドロでも死刑にする。そのような論陣を張る自信はある。なんでもかんでも死刑。

 それが嫌なら、裁判員制度を止めるがよい。私のように思っている裁判員候補は少なくないと思うからである。

医師免許と弁護士免許

2006-08-04 13:05:05 | Weblog
 医師免許と弁護士免許は、わが国最強の2大免許である。たまに両方とも持っている人がいる。いずれも取るのがきわめて難しい免許である。すごいなあと思う。よほど頭の良い人なのだろう。

 でも、私はそういう人に患者としてかかりたくないし、また弁護を頼もうとも思わない。なぜかというと、いずれの免許も実戦的に一人前になるためには、免許を取ってから10年はかかるからである。

 医者の世界には「専門」というのがある。内科とか外科とかである。その中でも細分化されていて、内科なら消化器内科、循環器内科など、それらの狭い分野さえ極めるのは大変なことである。

 弁護士の世界も同じだろう。刑法に詳しい弁護士と民法に詳しい弁護士は別なのだろう。

 なのに医師免許と弁護士免許を両方持っている人は、結局、どちらも極められないのではないか。

 私がこういう人に医療も弁護も頼みたくない所以である。

浅野右橘先生

2006-08-03 13:18:42 | Weblog
 私の俳句の師は、浅野右橘(ゆうきつ)先生である。浅野先生が88歳でご逝去されてからもうじき3回忌である。

 浅野先生は、私が精神障害者の社会復帰施設で所長をやっていたころ、障害者の句会の指導に喜んで来てくださった。障害者差別がまだ残っていた昭和62年のことであった。

 多くの俳人に指導を申し入れたが、来てくださったのは浅野先生だけだった。このご恩は一生忘れない。

 浅野先生はホトトギスの重鎮であられた。また、伝統俳句協会中部支部の会長でもあられた。それでも私や障害者の稚拙な俳句に、いちいち肯定的な評をくださった。まことに感謝の言葉もない。

 浅野先生が若いころ、次のような俳句をホトトギスに投句した。

     冬濤や野間の灯台傾けり

 浅野先生ご自身、この句には納得がいかず、「灯台が本当に傾いてしまったら、いかんわなあ」と思われていたそうである。ところが、この句がホトトギスに掲載されたときには、次のように添削されていたという。

     冬濤や野間の灯台傾くか

 若き浅野先生は、この添削にのけぞった。これがご自身が言いたかったことだという。

 浅野先生が添削の妙に感動された話は、もうひとつ伺っている。浅野先生のそのまた師に次のような句を浅野先生は示した。

     花芒道は平湯へ下りけり

 そうしたら、浅野先生の師は、「そりゃ君、ここはこうだろう」とすぐ添削した。結果は次の句である。

     花芒道は平湯へひた下り

 浅野先生は、あっけにとられると同時に、ご自分の語彙のなさを恥じたという。

 私は豊橋に越してきてから、星野昌彦先生を師としている。浅野先生と星野先生は、180度作風が違うので、とても面白いと思っている。

オランダには暴走族がいない?

2006-08-02 14:03:48 | Weblog
 ウソかホントか知らないが、オランダには暴走族がいないという。

 オランダの警官は暴走族を捕まえると、公衆便所に連れて行って、暴走族の襟首を掴んで、歯が折れるほど便器に顔を叩きつけるのだと言う。それで暴走族はいなくなってしまったのだそうだ。たぶん造り話だろうが・・・。

 日本で警官が同じことをやったら、大変な騒ぎになって、警官は免職されるかもしれない。しかし、オランダの造り話のようなことをやらない限り、暴走族はなくならない。

 警官にある程度の権限を与えてこそ、治まる御世(みよ)である。法律だの人権だのと硬いことを言っていると、末永く暴走族とお付き合いしなければならなくなる。

教育の機会均等は理想論

2006-08-01 13:17:49 | Weblog
 医学部を受験するときに私は教師に相談に行った。国公立だけでは不安なので、私立を受けることも考えたからである。教師の答えは「おまえは国公立に受かるから、私立は考えなくてよい」というものだった。

 私はすぐに察知した。教師は「おまえの家の経済レベルでは、私立は無理だ」と言いたかったのである。受験する前から門前払いを喰らったわけで、教育の機会均等なんて嘘だと、くやしい思いをした。

 教育の機会均等は、中学生までである。小学生のころ、しばしば学校を休む女の子がいた。担任は「あの子はお母さんが亡くなって、お父さんも病弱なので、家のきりもりをしなくてはならないんです」と生徒たちに説明した。子供心にショックだった。昔は小学校でも教育の機会均等が不十分だったわけである。

 私が高校生のころ、Z会という結構難しい通信添削の会社があった(今でもある)。その会でいつも高得点を取る女性がいた。東大も楽勝の成績だった。Z会は大学に合格すると辞めるのが普通なのだが、その女性は何年もZ会に入会していて、高得点を取り続けていた。

 怪訝に思ったある会員が、機関誌に「あなたは優秀なのに、なぜ大学へ行かず、いつまでもZ会で遊んでいるのですか?」と質問した。そうしたら、その女性が機関誌に返事を寄せた。返事には「大学へは行きたいのですが、私は家族を養うために働かなければならず、Z会の費用を出すだけでも大変なんです」とあった。これにもショックを受けた。 

 家庭が裕福でないと大学の私学、特に医学部には行けないことは、今も変わっていない。