いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

美形の五輪。 olympics of beautification

2021-08-10 20:47:12 | 日記
 (1)東京五輪閉幕の翌日の新聞の一面には「異形の五輪閉幕」のスポット文字があったが、思わず「美形の五輪」と読んでしまった。目の悪さに異形よりは美形を見慣れて条件反射してしまったものだが、しかし、今夏の東京五輪はやけにむやみに「美形」化された五輪だった。

 (2)IOCバッハ会長の日本を持ち上げる見え透いた文句に、IOCは日本、東京の母屋を借りてのコロナ感染拡大の中、やはり五輪開幕と同時の感染急増、医療ひっ迫の危機状況の中でこれをパラレルワールドと表現して、コロナ感染急拡大と五輪開催は別世界だとうそぶいた。

 (3)IOCバッハ会長は「(亡霊のような大会と言う人もいたが)アスリートが魂を持ってきてくれた」(報道)と東京五輪を美形化したが、選手たちはあまりにもハンディキャップ、リスクの大きいコロナ拡大社会での1年延期の東京五輪に向けてできる最大限の意識、意欲、努力、練習、準備で自らの能力を信じて発揮した結果としてのうれし涙、くやし涙であったと思う。

 (4)こういう純粋なアスリート魂をむやみにやけに美形化することは、選手、アスリートの自らへの努力に対する尊厳を顧みない、損なう行為となるだろう。組織委橋本会長は「全体として大きな問題が起きることなく閉幕の日を迎えた」(報道)と総括したが、IOCのパラレルワールドと歩調を合わせる無茶な発言で、国内社会で今起きている感染急増拡大現象とは異次元の感想を聞かされた思いだ。

 (5)IOCの商業主義、米国TVスポンサー頼りの東京五輪強行開催だったが、その米国では五輪TV視聴率は「激減」(報道)したとあり、時代がTVからIT、ストリーミング(再生ダウンロード)に移行した情報変化に乗り遅れた結果であった。

 どれもがやけに「美形」化された時代遅れの東京五輪の姿だった。が、日本社会に残されたのは「美形」でも「異形」でもない、分断の「形がい」化だ。

 (6)自国選手が活躍すれば国民にとっては悪い気はしないが、それは五輪精神性が目指す世界平和や共存、共感にとっては逆行する思想でもある。五輪をあまりに美形化することは五輪のまやかし、いまわしい時代につながるものだ。

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