(1)死刑判決がこれだけ注目される、さらにこれに同判決の裁判長から被告に控訴(appeal)
を勧める発言があったことは、社会正義、規範のパラダイム(paradigm)になる裁判制度に
いくつかの問題点を提起した。
経営者から依頼を受けて男性2名を残虐な方法で殺害した強盗殺人事件の裁判員裁判だ。
最高裁の判例に基づき死刑判決の基準とした9項目に照らして、裁判員裁判として初めて死
刑判決となった。
①動機の軽さ、行為の残虐性から極刑(capital punishment)以外に選択肢のない事件と
思われるが、裁判員はそれだけに重い選択を前にして「すごく悩み」、公判中何回も涙する
ことがあり「今も思い出すと涙が出る」重圧の中での判決である。(「 」内は報道)
人間が人間を裁く不条理(unreasonableness)の中での生命にかかわる通告判断をしなけ
ればならない裁判員は、日頃は生きていることが当然の日常性の中にあり、相互に助け合
い、人生の終幕を自然に迎えることが基本理念の文化観、倫理観の人々だ。
そういった市民感情を人間を裁く不条理の中に、短時間の内にどう持ち込めばいいのか、
これは究極のパラドックス(paradox)方程式だ。裁判員誰もが判断に確固たる核心を持つ
ことはできない非専門性(経験も含めて)がある。
高度な専門教育と経験を受けた裁判官でも、極刑判決には重圧があり過去にも被告に控訴
を勧める発言はあると聞く。ましてや、市民感情を裁判に期待する裁判員制度には苛酷な期
待で、日本文化のステージでは制度上の問題がある。
だからこそ、パラドックスとして合議制(多数決)と言いながら裁判官の意見を必要要件
としているのだ。
②裁判官による裁判でも自らの極刑判決に対して被告に控訴を勧める発言があり、今回も
裁判長から自らの判決に対する控訴を勧める発言には、人間が人間を裁く不条理の限界が見
える。
一部には裁判員の重圧、責任論に配慮したものとの報道もある。人間が人間を裁く限界が
あると言っても、社会正義は守られなければならずそのために他とは分立した独自の機関権
限の中で、高度な専門教育と経験を受けた専門性の高い裁判官の合議制による、公平で公正
な総合的な裁判判決を社会正義、規範のパラダイムとしてきた。国民の合意する社会構成要
件の基本原理だ。
裁判官にはどれもが究極の判断判決であるだけに、社会正義、規範のパラダイムとしての
確固たる信頼、信念の発言が求められる。
あたかもその責任を先延ばしをして他に委ねるかのような「控訴の勧め」発言には、裁判
員と同じ人間味は感じられても、究極の判断判決への社会からの信頼と責任を大きく損なう
ものだ。そもそも人間が人間を裁く不条理の世界に自ら生きる裁判官なのだからだ。
③人間が人間を裁く不条理の中で、死刑廃止論がある。裁判の判断としては、安全弁とし
ての効果はある。不条理の中での取り返しのつかない責任はまぬかれる一定の整合性はあ
る。無期で一生を償う人生の拘束も、ある意味では大変な重い負荷だ。
刑法は報復主義をとらないので、被害者感情をどう斟酌(しんしゃく)するのか、本来、
平和に生きて相互に助け合い、社会生活を構成する「人間」の不条理(unreasonableness)
が立ちはだかる。
を勧める発言があったことは、社会正義、規範のパラダイム(paradigm)になる裁判制度に
いくつかの問題点を提起した。
経営者から依頼を受けて男性2名を残虐な方法で殺害した強盗殺人事件の裁判員裁判だ。
最高裁の判例に基づき死刑判決の基準とした9項目に照らして、裁判員裁判として初めて死
刑判決となった。
①動機の軽さ、行為の残虐性から極刑(capital punishment)以外に選択肢のない事件と
思われるが、裁判員はそれだけに重い選択を前にして「すごく悩み」、公判中何回も涙する
ことがあり「今も思い出すと涙が出る」重圧の中での判決である。(「 」内は報道)
人間が人間を裁く不条理(unreasonableness)の中での生命にかかわる通告判断をしなけ
ればならない裁判員は、日頃は生きていることが当然の日常性の中にあり、相互に助け合
い、人生の終幕を自然に迎えることが基本理念の文化観、倫理観の人々だ。
そういった市民感情を人間を裁く不条理の中に、短時間の内にどう持ち込めばいいのか、
これは究極のパラドックス(paradox)方程式だ。裁判員誰もが判断に確固たる核心を持つ
ことはできない非専門性(経験も含めて)がある。
高度な専門教育と経験を受けた裁判官でも、極刑判決には重圧があり過去にも被告に控訴
を勧める発言はあると聞く。ましてや、市民感情を裁判に期待する裁判員制度には苛酷な期
待で、日本文化のステージでは制度上の問題がある。
だからこそ、パラドックスとして合議制(多数決)と言いながら裁判官の意見を必要要件
としているのだ。
②裁判官による裁判でも自らの極刑判決に対して被告に控訴を勧める発言があり、今回も
裁判長から自らの判決に対する控訴を勧める発言には、人間が人間を裁く不条理の限界が見
える。
一部には裁判員の重圧、責任論に配慮したものとの報道もある。人間が人間を裁く限界が
あると言っても、社会正義は守られなければならずそのために他とは分立した独自の機関権
限の中で、高度な専門教育と経験を受けた専門性の高い裁判官の合議制による、公平で公正
な総合的な裁判判決を社会正義、規範のパラダイムとしてきた。国民の合意する社会構成要
件の基本原理だ。
裁判官にはどれもが究極の判断判決であるだけに、社会正義、規範のパラダイムとしての
確固たる信頼、信念の発言が求められる。
あたかもその責任を先延ばしをして他に委ねるかのような「控訴の勧め」発言には、裁判
員と同じ人間味は感じられても、究極の判断判決への社会からの信頼と責任を大きく損なう
ものだ。そもそも人間が人間を裁く不条理の世界に自ら生きる裁判官なのだからだ。
③人間が人間を裁く不条理の中で、死刑廃止論がある。裁判の判断としては、安全弁とし
ての効果はある。不条理の中での取り返しのつかない責任はまぬかれる一定の整合性はあ
る。無期で一生を償う人生の拘束も、ある意味では大変な重い負荷だ。
刑法は報復主義をとらないので、被害者感情をどう斟酌(しんしゃく)するのか、本来、
平和に生きて相互に助け合い、社会生活を構成する「人間」の不条理(unreasonableness)
が立ちはだかる。