「重連」とか「補機」、そして「スイッチバック」。こんな言葉の意味、判りますか。この言葉の意味が判る人は相当な鉄道マニアだと思います。
クラブツーリズムのウオーキングで、廃線となった北陸本線を歩くウオーキングツアーの募集が有りました。バスで向かうツアーの良いところはスタート地点で降ろして貰え、ゴール地点で拾って貰える事です。後になって知った事ですが、この企画は関西地区と共催でして大阪や京都。神戸からも来ていました。添乗員が話していましたが、全部で96台のバスで、総参加者が900人だと言っていました。
明治の時代のトンネルです。トンネルの建設に苦労しただろという思いと、完成してからの列車の運行ですが、急勾配を列車が走るのですが、列車の運行も相当苦労したのだろうと想像しました。
尾張一宮からのツアーに参加しました。実は岐阜、穂積、大垣と言うコースを申し込みましたが、早々に催行中止が決定しました。仕方なく、尾張一宮で乗るコースに申し込みました。
バスには4番の番号が付いています。帰りに乗るバスで間違えないようにと言う印です。
他に豊橋や名古屋などから来ていました。
北陸自動車道の杉津パーキングエリアに着きました。
皆さん、ウオーキングの仕度をして歩き始めました。
杉津パーキングの展望台です。
急いで歩き出す必要は無いので、展望台から敦賀湾の眺を楽しみました。
北陸自動車道の下り線。杉津パーキングは高い場所にあります。
ウオーキングの始まりは、坂を下って行く所からの開始となります。
前方のガードは北陸自動車道の上り線です。
ここで、弁当の引換券を渡し、弁当を受け取りました。
車の停まっている所が弁当の引き換え場所でした。
雨が降っても、開催されたツアーですので、雨の場合を想定して、ここで配布するように企画したのでしょう。
鶴文と言う弁当屋さんです。
天気予報で福井県を紹介する場合に嶺南地方、嶺北地方という言い方をします。今日、歩く山々の場所が境界となっています。そういう言い方をする事は知っていましたが、男性から教えて貰ったのは敦賀は旧国名で言うと若狭で無く、越前なのだそうです。それで、敦賀市と南越前町との境界の山塊を境にして嶺北と嶺南の呼び方でした。
旧国名で区分できなく、山々を境にしている事が判りました。
弁当を受け取って歩き出します。弁当を受け取っただけなのですが、言葉をやり取りできる事が嬉しいです。
それに知識が1つ増えました。
左の写真。ロードサインが写っていますが、この道が旧北陸線の線路だった道です。
この辺りに旧杉津駅が有りました。
当時、列車に乗ろうと思うと、下から登り道を上って来なくてはなりませんでした。
苦労したことと思います。
線路跡の道です。
この辺りは、まだ勾配はキツく有りません。
野の花。
ツリフネソウが咲いています。
他にママコノシリヌグイではないかと思う花が咲いていました。
駿河湾の眺望です。
旧線路沿いには木が繫り、眺望は良く有りませんでしたが、この辺りだけは視界が広がりました。
いよいよ、連続するトンネルが始まります。
まず、1番目は第一観音寺隧道です。
トンネル内部。
下の側壁の部分は石・布積みで、上のアーチは煉瓦・長手積みです。
文化財のプレートが埋め込まれています。
トンネル内には、弱い照明が利ました。
第一観音寺隧道の外に出ます。
トンネルの外です。
先ほど貰った弁当を食べ始めている人が居ます。
荷として持つよりも、腹に収めてしまえばと言うつもりなのでしょう。
時間は11時49分です。昼食を食べても可笑しくない時間です。
私は、ここで弁当を食べるつもりは無かったので、眺望を気にしませんでしたが、海側を向いて食べて居ますので、海が臨めたのかも知れません。
2番目のトンネル。
第二観音寺隧道です。
今日のKオジサンの後ろ姿。
これからトンネルに入ります。
第二観音寺隧道からでます。
次のトンネル。曲谷隧道が見えます。
曲谷隧道に入ります。
アーチの上部に証明があり、トンネル内がカーブしている事が判ります
曲谷隧道の内部は第一観音寺隧道と同じように、下の側壁が石・布積みで、上のアーチは煉瓦・長手積みとなっています。
曲谷隧道の内から外を眺めます。
前方に次のトンネル。芦谷隧道が見えます。
曲谷隧道から出ます。
左側の視界が広がる場所に出ました。
敦賀湾が良く見えます。
下からか対岸からか。
「我は海の子~、しーら波の~、さーわぐ磯辺の松原に~・・・・・。
煙たなびく~・・・・・。」
正午のチャイムが聞こえました。
トンネルを出たときにチャイムが鳴ったのはラッキーでした。トンネル内でしたら判りませんでした。
歩いていて、左側の木が繫り眺望が良いとは言えない状況でした。
でもこの場所は眺望が利きました。
恐らく、当時の列車からもこの景色が望めた事と思います。
芦谷隧道に入ります。
トンネルの先に次の伊良谷隧道が見えます。
芦谷隧道の内部です。
こちらのトンネルは側壁がイギリス積み。アーチは長手積みになっています。
トンネルの内壁は傷んでいます。
雨が続いた影響からか、煉瓦の割れ目から水が滴り落ちています。
この水の落ち方。小便小僧のオシッコを想像してしまいました。
伊良谷隧道に入ります。
伊良谷隧道は中でカーブしていて、先が見通せません。そのため入口に信号がもうけて有ります。待ち時間は3分だそうです。
伊良谷隧道の内部です。
痛みが来ているのでしょう。
鉄板を巻き上げています。
最後のトンネル。
山中隧道に入ります。
この山中隧道は、歩いたウチで一番長いトンネルです。
山中隧道の内部です。
ケーブル線を架けたのでしょう。
壁にフックが残っています。
避難所ですが、大きな待避所です。
保線区で使う、あの自転車式の乗り物。
線路保守の時に、ここに待避させたのでしょう。歩いたトンネルの中で一番長いトンネルです。このような待避所が3箇所ほど有りました。
山中隧道の外に出てきました。
南越前町のキャラクター。
タッピーくん&はす坊が出口で待っていてくれます。
ここは山中信号所です。
スイッチバックで待避線となっています。
待避線のトンネルです。機関車が頭を突っ込んだ形で急行や準急の通過を待ったのでしょう。
行き止まりとなっています。
白い柱が立っていますが、信号のポールだと思います。
説明板が有りまして、その中に買っての写真が載っています。
山中信号所で昼食を取りました。
先ほど渡された弁当です。
着いているのは、今庄茶飯で豆が入っています。
山中信号所。
テーブルを出していますが、あの場所でそば茶1杯。そば煎餅を1枚いただきました。
沢山の人がいましたが、出発して行き少ない人となりました。
私もこれから出発します。
先へ進んでいきます。
明らかな下り坂です。
山中隧道を出たときから谷間に反響する汽笛が聞こえました。
姿は見えなかったのですが、汽車が有るのかと思ってしまいました。
実際は、トラックに汽笛を着けたものでした。
「ボー」と言う汽笛。
私も吹鳴を体験しました。
構造的にはコンプレッサーからエアーを送り、鳴らしているものでした。
待避線跡地です。
ここではボランティアガイドから説明を聞いています。
山中信号場の待避線跡地です。
トンネルの煉瓦は四日市から運んだのだそうです。今日のように物資を運ぶ事に恵まれた時代では有りません。煉瓦を下から背負ってあげたのだそうです。
蒸気機関車を運行するのですが、粗悪な石炭が多い時代でしたが、少しでも効率よくボイラーを焚く事を求められたそうです。機関車のパワーは求められるは、石炭は少量でと言う注文。しかも、釜焚では煙との苦闘です。
そんな、場面を想像できます。
信号所の説明板です。
スイッチバックの構造を説明しています。
ガイドが言っていましたのは、待避線は水平でないと列車が動いていってしまう。
だから水平にして有ったのだそうです。
信号所の説明板です。
スイッチバックで、かつての風景の写真が掲示してあります。
信号所から先に進みます。
左が待避線で水平な線路です。
右は本線で、下って行きます。
信号所から何百メートル来ただろうか。
右が本線で左が待避線です。
道はカーブを描いて下って行きます。
前方の建物は北陸新幹線の工事現場です。
北陸新幹線のトンネルを掘削していて、内部を覗かしてくれました。
進路が下って行く事が、ハッキリと判ります。
この旧北陸線の廃線跡は1000分の25の勾配です。
機関車が喘ぎ喘ぎ登ってく姿が想像できます。
車輪の空回り。砂を使ったのでしょう。
歩いていて、後ろを振り返りました。
カーブの坂道です。
先に進むと、平坦に近いようなところです。
道は左にカーブしていきます。
先にバスが見えます。
あの場所が旧大桐駅跡です。
旧大桐駅跡まで歩いてきました。
バスが待っています。
大桐駅のプラットホームが有った所です。
ここでも、ガイドボランティアが説明してくれています。
大桐駅の説明板です。
かつての姿。
列車が入線してきています。
DF50が先頭で、後ろのSLが白煙を上げているように見えます。
ここから今庄まではバスに乗ります。
自分たちが乗ってきたバスでなく、どのバスでも構いません。
次から次えと来たバスに乗車して今庄へ向かいます。
バスに乗りました。
右ですが、南今庄の駅が見えるトコに来ました。
今庄総合事務所の駐車場です。
ここへ96台のバスが結集します。
次々にバスが入って来ました。
バスの出発時間は16時となっています。
ここから、「宿の市」の所に向かいました。
クラブツーリズムから渡された地域振興券です。
今回のウオーキング。クラブツーリズムと南越路町がタイアップしていました。
ウオーキングを終えた後、「宿の市」をウォーカーが廻るように仕組まれていました。市で買い物をする訳ですが、200円だけの買い物でなく、200円を上回った金を使います。ウォーカーにお金を使わせる。
上手い企画だと思います。
総合事務所の一角にD51が保存展示して有ります。
この写真は綺麗に映っていますが、本体は埃を被り汚れていました。
それに、盗難除けか、ランプが取ってあります。
それに、ボイラー室を開ける丸いハンドル。盗られたのか、無くなっています。
「宿の市」の方へ歩いていきます。
「しらさぎ」なのか「サンダーバード」なのか、特急が通過して行きました。
左は今庄駅です。
右は石炭置き場と給水塔です。鉄道施設に興味の目を向けないと、知らずに過ぎ去ってしまいます。
この写真を撮った時、ある男性も気づいていましてカメラに収めていました。
朽ちるに任せるのでなく、鉄道遺産として、保護して貰いたいものです。
今庄宿のパンフです。
「宿の市」のポスターです。
ウォーカーで賑わいましたが、ウォーカーが居なかったら寂しいものになります。
幟旗が経っている所で「宿の市」が行われています。
テントの下で色々のモノが売られています。
皆さん、買い物しています。
地域振興券を使っているのでしょう。
昭和会館の外観と会館の3階内部です。
3階には北陸本線の廃線となったトンネルの紹介やかつての今庄、敦賀間の状況が紹介して有りました。
館内に何枚も、北陸線の旧線時代の写真が掲示した有りました。
左は客車を補機が後押しをしています。
右はディーゼル機関車の後ろに蒸気機関車が着いています。勾配のキツイ区間での運行。苦労したことと思います。
廃線跡のトンネル群を紹介しています。
「宿の市」の会場で打ち豆汁のお振舞いです。
打ち豆汁は郷土食だと書かれています。
味噌汁の中に大豆が入っていましたが、乾燥した大豆のように感じました。
素朴な味でした。
広場のような所で羽根曽踊りが踊られています。
今回の企画のために特別披露です。
バスが集結している所に戻ります。
戻る時間でも、到着して来るバスが有りました。
別の場所でご夫婦に聞きましたら、京都から来たと話してくれました。
来る時に渋滞に巻き込まれたのだそうです。
ご夫婦は12時頃から歩き初めたと言ってました。
名古屋組である、私たちは11時10分頃から歩き始めました。
京都組は50分遅れです。私がバスの集結場に戻る時に到着した組は、スタートがもっと遅かったのでしょう。「宿の市」での買い物時間がなくなってしまったのではないかと思いました。
感想
かつて北陸トンネル群の難所だった所を歩きました。6箇所の隧道を潜り抜けましたが、往時を想像しながら歩きました。急な勾配のトンネルです。列車の運行に難儀した事だろうと思えました。
ボランティアガイドの説明が良かったです。
まだ、鉄道が完成していない時期の事です。煉瓦を運ぶのに相当苦労しただろうと思いました。ボランティアが語ってくれたのは杉津駅などは下から背負って、高い線路の場所まで運び上げたとのことでした。釜焚きで、質の悪い石炭で列車を運行させる。蒸気のパワーは上がらないわ、石炭は沢山費やすわ。苦闘の連続だったのでしょうこのような、ナマの話しがボランティアから聞けた事が良かったです。
汽笛を鳴らす体験も、面白かったです。
鉄道史の一部を見た。そんな気がしました。
ウィッキ・ペディアに旧北陸トンネル群が紹介されて居ます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%8C%97%E9%99%B8%E7%B7%9A%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E7%BE%A4
余禄
北陸トンネルは昭和37年6月10日に開通しました。開通にあわせて、記念切手が発行されました。当時、中学生だった私は郵便局の入口の列に並んで切手を買いました。
この切手、乗務員用の扉が描かれていないとか、電化が完成したのに、何故ディーゼルカーなのだという声が有ったようです。
それに北陸トンネルでは大きな列車火災が発生しています。
昭和47年11月6日の事でした。