諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

宝物??を拾う夢。その1

2018年09月26日 07時57分08秒 | 昨日見た夢、いつか見た夢。
9月23日、またまた変な夢を見た。

場所は広いお堂。何故か宮司をしている友人が神職の衣装を着て壇上から何かを撒いている。上棟式で撒く餅や小銭の様に。

お堂には私を入れて20名程度いる。撒かれている何かを拾おうとする者は少ない。私は前に出て拾おうとするが、自分だけ拾う姿が何だか浅ましい。躊躇してしまう。何で皆、拾おうとしないのか。

グレーのお年玉袋みたいな袋が大量に撒かれた。私はお金が入っていると直感したが、上棟式では苦い思い出がある。

それにお金が入っているとしても5円玉だろう。そんなのを大量に拾ってもなぁー。そう思って少しだけ拾って愛用のマウンテンダックス社製、N35/46バイク用3wayショルダーバックに多少の袋を入れた。

何か色紙みたいなモノも撒かれている。私はそちらに向かい拾う。昔の女性タレントのプロマイドだった。こんなもの今は興味が無い。バックに入れようか躊躇う。でもチョトだけ入れた。遠慮しがちに。

他に何かないのか。水木しげるの妖怪の絵の色紙が有った。凄く繊細に書かれている。流石、水木しげるだ。

陰気な私にこんな陰気な絵も何だか微妙。私の本だらけの部屋に飾るにしても陰気な雰囲気が漂う。

でも素晴らしい絵に間違いない。これは嬉しい。でもアイツ、何でこんなモノを撒くのだろうか。自分のコレクションだろう。いらなくなったのか。

まっ、そんなのどうでもいいや。他にも変な袋が撒かれている。拾おう。

そして急に目を覚ました。変な夢だ。何で宮司の友人がお寺のお堂に居るのだ。自分のお堂みたいだったし。

塩釜神社にもお堂が有る。神仏習合時代、塩釜神社にはお坊さんたちもいた。同じ場所に神職とお坊さんたちが居た。考え方が違えど同じ神を祀っていたからだ。

神道は幹。日本の仏教は枝。日本の仏教はインドの仏教ではない。日本の神を仏教的に解釈しているだけ。その点は深く考えなくても良いのかも知れない。

でも私の夢に初めて友人が出て来た。考えてみたらこれは初めてのケースだ。何を意味しているのだろう。

そしてまた欝ら欝らと眠りについた。そしたらまた先の夢のお堂に居る。友人はいない。人も少なくなっている。撒いたモノがまだ残っている。また拾う。

それにしても撒かれた袋には何が入っているのか。グレーのお年玉袋??を開けてみた。何か梵字の様な形の金具が入っている。何だこれは。キーホルダーにする前の飾りか。でも貴重なモノなのは間違いないだろう。また拾う。

よし、残っているなら全部私が拾おう。でも私のこの姿、地獄の餓鬼みたいだな。

考えてみたらこの世は私にとって地獄に近い。決して天国ではない。私が色々悩み苦しんでいるのは人生が満ち足りていないから。つまり私はこの世に生きる餓鬼そのものではないか。

でも撒かれているモノは私にとっては宝物。それは欲望なのかも。

でも拾おう。それを拾う事で心が満たされる。幸せに感じる。それは本当に私は現世を生きる餓鬼だからなのでは。死んだらあの世でも餓鬼になってしまうのでは。

そう考えていたらまた目が覚めた。夢の続きを見るなんて久しぶりだ。何を意味しているのだろう。

よし、また夢占いを調べてみよう。


続く。



コメント (2)
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