諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

永井直勝の最初の妻・百合姫自害の深層を考察する。その1

2019年03月07日 07時46分16秒 | 永井直勝
今回の話は諸説ありです。戦国時代、しかも女性の話ですから殆ど伝承が残っていない。名前も残っていない場合が多い。だからどこまで真実に迫れるのか疑問。どうしたもんでしょうねぇー。

まっ、そう言う事で、そうじゃないかなぁーと言う感じで書きたいと思います。

永井直勝。大抵の歴史通は幸運に恵まれて7万2千石の殿様になったと言うでしょうけど、戦国時代とは言え彼も不運は人並み以上に有りました。何せ人殺しの家系のサラブレッドですから。

先ず、実の親は幼くして亡くなっているみたいです。父親の長田重元は親戚、または伯父か叔父ではないかと思われます。直勝の実の弟は豪農、豪商に成っていますし、その説も有りますので。

誰が直勝の親を殺したのか。もしかしたら領地の大浜を7度襲った織田信長かも知れませんが、それに付いては伝承は残ってないです。

長田重元の本来の実の息子は長田尚勝。養子の直勝の義理の兄。

1580年に東端城を尚勝が築城しているのですが、弟の永井直勝が小牧長久手の戦いで大将の池田恒興を討った事から、徳川家康の命により弟の直勝が1584年に城主となっています。そして先代城主の尚勝は、大浜上之宮神社の宮司に退いています。

どうも兄の尚勝は病弱だったとの話が伝わっていますが、家康の命とは言え兄の城を自分が引き継ぐのは辛かったと思います。永井直勝は思慮深い人物でしたから。

因みに兄・尚勝が宮司となった大浜上之宮神社は熊野神社です。長田家は代々藩主をやりながら熊野の神官をも続けています。因みに東端城は現在、城山稲荷大明神として祭られています。

何故に長田家は熊野なのか。それは熊野の神の地を征服した天穂日命の家系だから。熊野の神の祟りを恐れて、熊野神を祀る神官を続けていたと思われます。長田家は祟りに敏感でしょうから。

そして更に直勝は最初、家康の長男・松平信康に小姓として仕えていた。

しかし信康は武田家と通じていたとして家康の命により自害。その母親の築山殿も家康の家臣により殺害されています。この事件は直勝にとって憤懣遣り切れなかったと思います。

因みに信康は蟄居を命じられ、直勝の実家である大浜の長田屋敷にも幽閉されています。

もしかしたら家康は、長田重元に信康を逃がして貰いたかったのかも知れません。ここら辺の経緯は流石に分かりません。

自分を見出してくれた信康が実の父の家康に切腹を命じられた。実の父親ではない長田重元は自分を我が子として育ててくれた。それを想うと家康に対して不信感を持つのも当然でしょう。最初は家康を相当恨んでいたのは事実だと思えます。

話を東端城に戻します。

東端城の城主となった永井直勝は、豪族の大河内秀綱の娘・百合と結婚。しかし翌年、百合姫は自害してます。

この件について諸説が多くあります。

既に小牧長久手の戦いの前には結婚していて、直勝が戦中に百合姫が亡くなったと伝えられた。

直勝は従者と共に討った池田恒興の首を持って戦線を離脱。途中、農家のお婆さんに恒興の首を預けて、実家に舞い戻ったとの話が伝わっています。

理由は百合姫が病死した。更には直勝に会えぬ寂しさか自害した。不貞を働いて自害したとも言われております。


この話が事実だとしたら、池田恒興を討った頃に妻の百合姫は亡くなったことになります。

池田恒興は剃髪していた。仏門に入っていた。それを討った。坊主殺せば7代祟る。そして百合姫が亡くなった知らせが届いた。

そうなると私が直勝でも精神がおかしくなり、戦線を離脱して帰りますね。

大手柄を立てた瞬間に妻が亡くなった。源義朝を風呂場で討った稀代の卑怯者・長田忠致の一族である直勝は祟りを非常に恐れていた。もう戦どころではない。

これは信康の自害に次いで辛かったと思います。


続く。




コメント (2)
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