人生100年時代。もう心配でたまりません。間違って100まで生きたらどうしよう。寝たきりになったらどうしよう。
頭がボケずに寝たきりにならない年齢。私は80歳まで生きれれば十分。何なら70歳で亡くなってもOK。60歳の今無くなっても納得します。生が幸せだとは思えなかったので。
今、BS放送を観ていると健康食品のCMで溢れています。水とか青汁とか、イワシだけの煎餅とか、黒酢とかetc、etc。
決まって元気な後期高齢者が表れて、「100歳まで生きる、頑張る」とCMで言わせてます。「100歳まで生きるのが人生の清く正しいゴール」の様にCMしています。ここまで来ると洗脳ですよ、これ。
「下手としたら、100歳まで生きてしまう」。
そうなったら金も必要。だから新NISAやら生命保険やら入らないと心配で生きていけない。長生きする心配で鬱になる。そんな人生って幸せなんでしょうか。
人生ってね、ほんの80年位前は50歳程度だったのです。その位で死んだ方が苦しまないで済むし、痛みで苦しむ期間も少ない。
「飲むなら焼酎、死ぬなら卒中」。苦しまずに卒中でスパッと死ぬ。
東北には苦しまずにスパッと死ぬ事を望む人達が信仰する「ぽっくり寺」が多く存在しますが、余り長生きせず、介護で人に迷惑をかけず、スパッとあっさり死ぬのが、一番良い死に方だと思いますね。
そこで誰もが心配するのが死の恐怖です。死んだらどこに行くのか。
仏教では涅槃に行く事になっています。この涅槃ですが、その意味は「欲の無い世界」です。無我の境地です。
人間、欲があるから生きて行けるのですが、死んでから欲を持っても仕方がない。死の世界を心配しても仕方ないと思います。
それともう一つ。死での心配事。それは死の瞬間、痛くないのかだと思います。
この件に関してですが、私、心配していません。
私、脚立から落ちた瞬間、気を失って床にぶつかった衝撃を覚えていませんでしたから。
結構な人々が飛び降り自殺していますが大丈夫です。ぶつかる瞬間や痛みは覚えていないです。痛みを感じず死ぬ事が出来ます。
それと私の父が2年前に亡くなり、亡くなる瞬間を私だけが診ていましたが、痛みを感じず苦しまず亡くなりました。無になった感じで亡くなりました。
その瞬間を見て私、死とは無に成ることだと確信しました。
仏教の教えで涅槃に行って修行するのって嘘だと確信しました。
無になるんです。欲も無くなる。夢も見なくなる。死んでまで修行して苦しむのなんて嘘。
夢は欲ですが、欲が無いのって幸せじゃないですか。
っと思ったりもしたものの、欲が無くなり半分死んでいる私って、生きるのが辛いです。これって、まだ欲が残っていることですかねぇー。
まっ、取りあえず、死ぬ瞬間は痛くないのは間違いないと確信しています。死ぬ事を心配しても仕方ないです。誰だって死ぬのですから。
私位になると死の世界がチョッピリ楽しみだったりするのですが、そんな感じで生きていた方が楽なのは確かだと思います。
無になるのだったら、修行も天国も地獄もない。
欲が無くなるって事は、気に病む事が無くなるって事だと思いますしね。
ではでは。
おおかた、死に関しては綱永井さんと同じ考えなんですが
心残りは猫。そして生きるのを保てているのも猫。
本当は猫のふわふわのお腹に顔を埋めつつあの世へ行きたい。
猫に看取られたい。
しかし、猫を元気で長生きさせて最後を看取るのが愛情。飼い主の責任。
そのために生きているようなもんです、私も(笑)
>看取られるのが良いか、看取るのが良いか。 ... への返信
最近、尻尾が真っすぐな猫が多く見かけるようになりましたが、尻尾が真っすぐな猫は20年生きると妖怪・猫又になると信じられ、嫌われていたみたいですね。だから鍵尾の猫が縁起が良いとされていたとか。
私も犬猫を飼いたいとは思いますが、自分が先に亡くなったことを考えると飼えません。義妹の突然の死から、20年後のことなど分からないと思うようになりました。自分の死は犬猫の死でもありますので。
柴神は旅立ちの神と言われていますが、古代、人が亡くなると柴犬と一緒に埋葬していたそうです。犬猫と一緒に埋葬されるのはアリだと思っています。墓相では凶だそうですが。