少し言葉足らずだったと思うので、書き足したい。
言葉の使い方は、人それぞれだし、その言葉に対する思い入れも当然に、人それぞれで良いと思う。夢という言葉は、不思議なほどに、人の心を捉えるようだ。捉えるどころか、虜にしてしまう場合もある。
私が夢という言葉に否定的となったのは、20代の長期入院の頃からだ。その病院には、様々な難病患者が集まっていた。私が聞いたこともない奇病も少なくなかった。もっとも、私のやられた病気も患者数はそう多くない。それでも一年近い入院中に、八名ほど同じ病気の患者と出会えた。
最初に知り合ったのがCさんだった。当時既に2年近い長期入院中であった彼は、どちらかといえば不良患者だった。病院を抜け出す手口や、医者や看護婦の妙な噂話を聞かされたものだ。そんなCさんだったが、夏も終りを迎えようとした日、教授からそろそろ退院しようかと言われ、凄く喜んでいた。
病棟の皆に触れ歩いていたから、相当に嬉しかったのだろう。そして翌週には退院だという週末、病院を抜け出して、前祝と称して風俗店へ行ってしまった。妙にすっきりした顔で戻ってきて、さぞや自慢話を聞かされるだろうと覚悟していたら、すぐに寝てしまった。疲れたのかな?
翌日、彼の居る病室へ行ってみると、風邪を引いて発熱したようで、苦笑いしていた。まあ、体力が落ちているから仕方ないな、と思いつつ、それほど心配はしなかった。この時点ではだ。
ところが休日明けの月曜から事態は急変した。なんと肺炎を併発して、重度患者の部屋へ移されてしまった。担当医があたふたしているので、婦長を呼んで「前祝」の件を話した。やはり黙っていたらしい。顔色を変えた婦長は、すぐに教授室へ飛んで行き、医師チームに伝えたようだ。
私らの難病は免疫システムの異常が関わっているため、意図的に免疫力を低下させる薬を長期間服用している。当然に感染症には、極度に弱くなっているのだが、これほどとは思いもしなかった。退院の予定だったCさんは、退院どころか重症患者となってしまい、その三ヵ月後には死亡した。
少しずつ体が衰えていく様子は見ていて悲惨だったが、それ以上に悲惨だったのが精神面での退行現象だった。身体が衰えていくより早く、心が衰えていった。
病棟にあまり親しい人がいなかったCさんは、私に会いたがった。婦長に頼まれ、時々面会していた。聞かされるのは、実現不可能な夢の話ばかり。どこで聞いたのか、あるいは思いついたのか、蕎麦屋を経営する話とか、マンションの管理人に納まるとか、会うたびに違う夢を聞かされた。
棒のようにやせ衰えた手足で、立つことも起き上がることも出来ず、ただ目を鈍く光らせて、滔々と夢ばかりを語るCさん。同じ話を何度も聞かされた。正直かなり苦痛だったが、それでも面会するように努めていた。
別にCさんに同情していたわけではない。憐れみを通り越すくらい、悲惨な姿は、自身への教訓として、瞼に刻み付けておくべきだと考えていたからだ。聞くのは苦痛だったが、夢しか語れない彼の悲惨な状況は、もしかしたら自分が経験するかもしれない姿だと冷徹に考えていた。
身寄りといえば、遠方から泊りがけで来る年老いた母親だけで、長期入院のせいか、知人の見舞いさえ稀だったCさんが亡くなった時、私は浮ュて病室から出なかった。
夢なんて嫌いだ。夢にすがり付くくらいなら、惨めでも現実を直視して、無様に生き延びてやる。夢に逃げるくらいなら、現実に殴りかかって潰れてやる。夢に憧れるくらいなら、現実に媚びてやる。長生きは出来ないだろうが、私は現実に足を付けて生きてやる。夢なんていらない。寝ている時に見る夢だけで十分だ。
言葉の使い方は、人それぞれだし、その言葉に対する思い入れも当然に、人それぞれで良いと思う。夢という言葉は、不思議なほどに、人の心を捉えるようだ。捉えるどころか、虜にしてしまう場合もある。
私が夢という言葉に否定的となったのは、20代の長期入院の頃からだ。その病院には、様々な難病患者が集まっていた。私が聞いたこともない奇病も少なくなかった。もっとも、私のやられた病気も患者数はそう多くない。それでも一年近い入院中に、八名ほど同じ病気の患者と出会えた。
最初に知り合ったのがCさんだった。当時既に2年近い長期入院中であった彼は、どちらかといえば不良患者だった。病院を抜け出す手口や、医者や看護婦の妙な噂話を聞かされたものだ。そんなCさんだったが、夏も終りを迎えようとした日、教授からそろそろ退院しようかと言われ、凄く喜んでいた。
病棟の皆に触れ歩いていたから、相当に嬉しかったのだろう。そして翌週には退院だという週末、病院を抜け出して、前祝と称して風俗店へ行ってしまった。妙にすっきりした顔で戻ってきて、さぞや自慢話を聞かされるだろうと覚悟していたら、すぐに寝てしまった。疲れたのかな?
翌日、彼の居る病室へ行ってみると、風邪を引いて発熱したようで、苦笑いしていた。まあ、体力が落ちているから仕方ないな、と思いつつ、それほど心配はしなかった。この時点ではだ。
ところが休日明けの月曜から事態は急変した。なんと肺炎を併発して、重度患者の部屋へ移されてしまった。担当医があたふたしているので、婦長を呼んで「前祝」の件を話した。やはり黙っていたらしい。顔色を変えた婦長は、すぐに教授室へ飛んで行き、医師チームに伝えたようだ。
私らの難病は免疫システムの異常が関わっているため、意図的に免疫力を低下させる薬を長期間服用している。当然に感染症には、極度に弱くなっているのだが、これほどとは思いもしなかった。退院の予定だったCさんは、退院どころか重症患者となってしまい、その三ヵ月後には死亡した。
少しずつ体が衰えていく様子は見ていて悲惨だったが、それ以上に悲惨だったのが精神面での退行現象だった。身体が衰えていくより早く、心が衰えていった。
病棟にあまり親しい人がいなかったCさんは、私に会いたがった。婦長に頼まれ、時々面会していた。聞かされるのは、実現不可能な夢の話ばかり。どこで聞いたのか、あるいは思いついたのか、蕎麦屋を経営する話とか、マンションの管理人に納まるとか、会うたびに違う夢を聞かされた。
棒のようにやせ衰えた手足で、立つことも起き上がることも出来ず、ただ目を鈍く光らせて、滔々と夢ばかりを語るCさん。同じ話を何度も聞かされた。正直かなり苦痛だったが、それでも面会するように努めていた。
別にCさんに同情していたわけではない。憐れみを通り越すくらい、悲惨な姿は、自身への教訓として、瞼に刻み付けておくべきだと考えていたからだ。聞くのは苦痛だったが、夢しか語れない彼の悲惨な状況は、もしかしたら自分が経験するかもしれない姿だと冷徹に考えていた。
身寄りといえば、遠方から泊りがけで来る年老いた母親だけで、長期入院のせいか、知人の見舞いさえ稀だったCさんが亡くなった時、私は浮ュて病室から出なかった。
夢なんて嫌いだ。夢にすがり付くくらいなら、惨めでも現実を直視して、無様に生き延びてやる。夢に逃げるくらいなら、現実に殴りかかって潰れてやる。夢に憧れるくらいなら、現実に媚びてやる。長生きは出来ないだろうが、私は現実に足を付けて生きてやる。夢なんていらない。寝ている時に見る夢だけで十分だ。