その日、私は朝からイライラしていた。理由は忘れたし、思い出したくもない。肩に食い込むザックの重さは、苛立ちを加圧せんばかりだ。おまけに低気圧が接近中で、風が唸りをあげ、黒い雲が足早に空を流れていく。
場所は南アルプス、赤石山脈のど真ん中だ。夜が明けて、青い空でも望めれば、少しは気分も晴れようというものだが、どんより曇った空はますます薄暗くなり、風は怒りの咆哮を喚きたてる。気分は最悪だった。休憩中ですら、一言も口を利く気にならない。
樹林帯を抜けて3000メートル級の稜線に出ると、荒涼たる岩場が待ち受けており、足場は悪く気が抜けない。雨交じりの強風が身体に叩きつけられ、真直ぐ歩くのに不安を感じるほどだ。
苛立っている場合じゃなかった。この岩場を抜けて、稜線を越えて再び樹林帯に入り込まないと、命の危険があることが、ひしひしと感じられる。互いにザイルを結び合い、ゆっくりと着実に足を進める。
自然は過酷だ。ひと一人の思惑など、ねじ伏せ、足蹴にされる。あれほどの苛立ち、焦燥感、憤怒の情など、苛烈な強風と、凍て付かせるミゾレ交じりの雨がかき消してしまった。辛くも樹林帯に逃げ込み、今夜の宿営地に辿り着いたが、まだ油断は出来ない。
いつもなら一年生に任せるテント張りは、全員で力を合わせねば、とても出来なかった。疲労と強風が、簡単なはずのテント張りを極度に難しい作業にしてしまった。声を出し合い、タイミングを合わせて綱を引き、ペグを打ち込み、なんとかテントを設営できた。
順々に入り、濡れた体と冷え込んだ心を癒すため、コンロで湯を沸かし、お茶を入れる。甘い茶菓子とともにお茶が皆に回る頃には、誰となしに安堵の笑みが交される。朝からの苛立ちなど、完全に消えうせてしまった。あれは私の甘えなのだろう。
皆で力を合わせ危機を乗り越え、こうして暖かいテントのなかで安堵の会話を交せる幸せに比べれば、朝の苛立ちなど些細なことでしかないと、つくづく思う。いや、思わされた。
怠け者で、気が弱く、短気で、根性なしの自分を鍛えてくれたのは、過酷な山の自然と、共に苦難を乗り越えた仲間があったからこそだと思う。今はもう、山に登ることは許されぬ身体と成り果てましたが、たまに冒険小説を読むと、当時の思い出が鮮やかに思い出されます。
なお、表題の本は山ではなく、海と島を舞台にしたものですが、私が一番感銘を受けたのは、島の人々が力をあわせる場面でした。あの荒川三山での苦難を思い出さずいはいられません。もう20年以上前のことですが、あの時の強風の轟音と、どす黒い雨雲は今も鮮やかに脳裏に焼き付いています。鮮烈な思い出、その一言に尽きます。
場所は南アルプス、赤石山脈のど真ん中だ。夜が明けて、青い空でも望めれば、少しは気分も晴れようというものだが、どんより曇った空はますます薄暗くなり、風は怒りの咆哮を喚きたてる。気分は最悪だった。休憩中ですら、一言も口を利く気にならない。
樹林帯を抜けて3000メートル級の稜線に出ると、荒涼たる岩場が待ち受けており、足場は悪く気が抜けない。雨交じりの強風が身体に叩きつけられ、真直ぐ歩くのに不安を感じるほどだ。
苛立っている場合じゃなかった。この岩場を抜けて、稜線を越えて再び樹林帯に入り込まないと、命の危険があることが、ひしひしと感じられる。互いにザイルを結び合い、ゆっくりと着実に足を進める。
自然は過酷だ。ひと一人の思惑など、ねじ伏せ、足蹴にされる。あれほどの苛立ち、焦燥感、憤怒の情など、苛烈な強風と、凍て付かせるミゾレ交じりの雨がかき消してしまった。辛くも樹林帯に逃げ込み、今夜の宿営地に辿り着いたが、まだ油断は出来ない。
いつもなら一年生に任せるテント張りは、全員で力を合わせねば、とても出来なかった。疲労と強風が、簡単なはずのテント張りを極度に難しい作業にしてしまった。声を出し合い、タイミングを合わせて綱を引き、ペグを打ち込み、なんとかテントを設営できた。
順々に入り、濡れた体と冷え込んだ心を癒すため、コンロで湯を沸かし、お茶を入れる。甘い茶菓子とともにお茶が皆に回る頃には、誰となしに安堵の笑みが交される。朝からの苛立ちなど、完全に消えうせてしまった。あれは私の甘えなのだろう。
皆で力を合わせ危機を乗り越え、こうして暖かいテントのなかで安堵の会話を交せる幸せに比べれば、朝の苛立ちなど些細なことでしかないと、つくづく思う。いや、思わされた。
怠け者で、気が弱く、短気で、根性なしの自分を鍛えてくれたのは、過酷な山の自然と、共に苦難を乗り越えた仲間があったからこそだと思う。今はもう、山に登ることは許されぬ身体と成り果てましたが、たまに冒険小説を読むと、当時の思い出が鮮やかに思い出されます。
なお、表題の本は山ではなく、海と島を舞台にしたものですが、私が一番感銘を受けたのは、島の人々が力をあわせる場面でした。あの荒川三山での苦難を思い出さずいはいられません。もう20年以上前のことですが、あの時の強風の轟音と、どす黒い雨雲は今も鮮やかに脳裏に焼き付いています。鮮烈な思い出、その一言に尽きます。