辛い時は、丸くなって寝てしまうのがいい。
高校三年の冬を終え、大学受験も一通り済ませて後は結果を待つだけだった。正直あまり緊迫感はなかったと思う。大学なんて社会に出るための最後の階段に過ぎないと思い込んでいたからだ。
高校の成績は学業だけなら、多分学年でトップクラスだと思っていた。出席日数というか遅刻の数が異常に多かったので、推薦入学は無理だったが、実力で受験を通り抜けるつもりでいた。それだけの勉強は積み重ねたと思う。
ただ気持ちが集中していなかった。深夜の机の前で勉強しているつもりで、ふと気がつくと思い出すのは振られた彼女のことばかり。断ち切るようにノートに集中するも、手は動いていない。気がつくと外は朝日が昇っている。
受験に集中できぬまま、曖昧な気持ちで試験に挑んだのが不合格の原因だった。分っていた癖に、妙なプライドが邪魔して認めたくなかった現実。未練があったというより、気持ちを切り替えられなかったのが一番の失敗だ。
だから最後の不合格を知った時も、それほど意外感はなかった。ただ、やりきれぬ虚しさが身体の底にどんよりと澱み、心ばかりか身体までも重くする。
まだ昼前だったが、弱った獣が草叢に身体を隠すが如くに、ベッドに潜り込む。眠いとは思わなかったが、起きていたいとも思わなかった。だから、布団を被って潜り込むように眠った。
目が覚めたら、既に夜だった。Yに電話してみる。
「おぅ、どうだった」
「いや、駄目だったぜ」
「なんだ、俺もだ」
「しょうもねえな」
たわいない会話を交わしただけだが、少し元気になった気がした。気がつくと腹が猛烈にすいてた。やっぱり友達っていいものだと思う。
さりげない日々の暮らしと、振り返って痛感するささやかな幸せのありがたみを書かせたら絶品なのが、庄野潤三の素晴らしさだと思う。この繊細でありながら、おおらかな優しい心根に憧れるようになって久しいが、私には未だ遠い境地でもある。
気分が荒廃した時にこそ、ささやかな幸せを感じ取れるようになりたいものだ。
高校三年の冬を終え、大学受験も一通り済ませて後は結果を待つだけだった。正直あまり緊迫感はなかったと思う。大学なんて社会に出るための最後の階段に過ぎないと思い込んでいたからだ。
高校の成績は学業だけなら、多分学年でトップクラスだと思っていた。出席日数というか遅刻の数が異常に多かったので、推薦入学は無理だったが、実力で受験を通り抜けるつもりでいた。それだけの勉強は積み重ねたと思う。
ただ気持ちが集中していなかった。深夜の机の前で勉強しているつもりで、ふと気がつくと思い出すのは振られた彼女のことばかり。断ち切るようにノートに集中するも、手は動いていない。気がつくと外は朝日が昇っている。
受験に集中できぬまま、曖昧な気持ちで試験に挑んだのが不合格の原因だった。分っていた癖に、妙なプライドが邪魔して認めたくなかった現実。未練があったというより、気持ちを切り替えられなかったのが一番の失敗だ。
だから最後の不合格を知った時も、それほど意外感はなかった。ただ、やりきれぬ虚しさが身体の底にどんよりと澱み、心ばかりか身体までも重くする。
まだ昼前だったが、弱った獣が草叢に身体を隠すが如くに、ベッドに潜り込む。眠いとは思わなかったが、起きていたいとも思わなかった。だから、布団を被って潜り込むように眠った。
目が覚めたら、既に夜だった。Yに電話してみる。
「おぅ、どうだった」
「いや、駄目だったぜ」
「なんだ、俺もだ」
「しょうもねえな」
たわいない会話を交わしただけだが、少し元気になった気がした。気がつくと腹が猛烈にすいてた。やっぱり友達っていいものだと思う。
さりげない日々の暮らしと、振り返って痛感するささやかな幸せのありがたみを書かせたら絶品なのが、庄野潤三の素晴らしさだと思う。この繊細でありながら、おおらかな優しい心根に憧れるようになって久しいが、私には未だ遠い境地でもある。
気分が荒廃した時にこそ、ささやかな幸せを感じ取れるようになりたいものだ。