ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

銭ゲバ ジョージ秋山

2009-11-25 12:10:00 | 
紙幣と言う名の紙切れが、私たちを捕らえて離さない。

純金の硬貨ならばまだ分るが、この紙っきれが通貨としての財産価値を持つことには、一応疑問を抱いたほうがいいと思う。

誰が言ったか忘れたが、我々は貨幣経済という名の妖怪に取り付かれているのかもしれない。いや、むしろ神と称すべきなのか。貨幣経済という名の宗教の信者であり、紙幣や通貨は神の恩寵なのか。

物々交換から始まった経済行為は、市場の成立と通貨により飛躍的に広まり、人間社会を繁栄に導いたことは否定しない。私はなにも経済原理否定論者ではないし、ここで経済学的見解を披露したいわけでもない。

ただ、それでもだ、金銭に取りつかれることへの危惧は隠せない。

どっかのCMではないが「よ~く考えよう、お金は大事だよ~♪」と唄われるとおり、お金は大事だ。お金は自由を保障してくれる。欲しいものを手に入れる自由。食べたいものを食べられる自由。悦楽の時間を過ごす自由。お金=自由なのだ。

だが、その自由を得ることは決して自由ではなく、むしろ縛られる。自由を得ようとして頑張っていたのに、気がついたら不自由な境遇に喘ぐ自分に気がつくことがある。

通貨は欲しいものを手に入れ、受けたいサービスを享受するための手段なのだ。手段でありながら、富みとしての性格を持つがゆえに、目的化してしまうことが多い手段でもある。

金で買えないものはないと断言するほど軽薄にもなれないが、金自体を蔑む気持ちもない。金で買えない価値観の存在を大事にしたいが、金で購える自由を大切にもしたい。

少なくとも「銭ゲバ」と蔑まれるような生き方はしたくない。でも、「銭ゲバ」と呼ばれるほどの努力を出来る人は稀だとも思う。真似したいとは思わないが、あれほど必死に金にしがみ付く様は反面教師にはなると思う。

表題の作品は、私が小学生の頃にヒットした怪作だ。高度成長著しい日本にあって、ハングリー精神をもって金儲けに執着した人は今よりも多かった気がする。その生き様は阿漕で醜悪だったのかもしれないが、今どきの金を浪費するだけのグウタラどもよりも、よっぽど生きている印象はあった。

銭ゲバには、良くも悪くも強烈な逞しさを感じたものだ。あの金への執着心が、やがてバブル経済というあだ花として弾けて飛散した。貧乏=不幸という等式が常識として蔓延している。

お金は大事に使いたい。でも、お金にとり付かれることは避けたい。お金がなくとも幸せはつかめると信じたいからね。
コメント (4)
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