野球はチームプレーが大切だ。
私もそう考えているが、実は内心疑念ももっている。つまるところ、ピッチャー次第じゃないのか。
傑出したピッチャー一人いれば、ほとんどの試合は勝てる。それが現実だと思う。それを体現してみせたのが、1970年代に作新学園のエースであった江川卓だ。
江川一人、別次元で野球をやっていた。既に多くの人が語っていることだが、江川の最盛期は高校時代、それも2年生までだと思う。
私も生で観たことがあるが、あの剛速球には驚いた。速くて、重くて、切れがあった。それも、何気ない投球フォームから無造作に投げて、である。
単に速いだけなら、後の伊良部、与田、郭、槙原だって、相当なものだった。だが、あれほどのインパクトはなかったように思う。だが、残念なことにこの屈指の剛速球投手は、あまりに沢山の試合数に潰された。なにせ、公式試合以外の練習試合が年間60を超え、その大半を一人で投げている。これでは肩が潰れても仕方ないと思う。
作新学園及び高野連には大いに反省を求めたいものだ。
その江川が投げた試合で、私にとって忘れがたいものが二つある。
一つはプロ野球、すなわち対広島線でサヨナラホームランを小早川に浴びたあの試合である。江川卓渾身の一球であり、それを打たれたことで引退を決断した、あの試合である。私はその試合をTVで観ていたが、マウンドに片膝ついて座り込み、動こうとしない姿をみて引退を予感したものだ。一つの時代が終わったと思っていた。
もう一つは、江川の作新学園時代、最後の甲子園出場となったあの雨のなかの試合であった。これもやはりTV観戦であった。雨が降る中の延長12回裏、ランナーを背負ってのピンチの場面であった。
一人で投げ、一人で勝ち進んだマウンドの王様のまわりに、なぜかチームメイトが集まっていた。ピンチの場面では珍しい光景ではないはずなのだが、江川に関する限り、きわめて珍しかった。
江川のワンマン・チームであった作新学園は、チームプレーとは程遠い奇妙なチームであった。同じチームでありながら、江川とそのチームメイトたちとの間には目に見えぬ線が引かれている感が否めなかったからだ。
だが、その最終回、最後の場面では普通の高校野球のチームであったように思う。地面がぬかるみ、思うようなピッチングが出来ぬ江川が、初めてチームメイトの地面に降りてきた。そんな場面であった。
あの場面でどんな会話がなされたのか。
それを明らかにしてくれたのが表題の書の著者である二宮清純だ。既にスポーツライターとしては著名な彼だが、私は「Number誌」に掲載された彼の文章で、その会話の中身を知った。
そこに描かれていたのは、謙虚にわがままを押し通すことを願う青年と、これまで口に出来なかった感謝を口にするチームメイトたちとの和解の場面であった。
江川のわがままは打ち砕かれ、遂に栄冠を手にすることなく甲子園を去った。しかし、この試合の最後で、江川はワンマンチームの孤高の王者から、一人のチームメイトに昇格できた。もしかしたらそれは、甲子園の優勝旗よりも重く、輝かしい栄冠なのかもしれない。私はそう信じている。