ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

万里の長城遭難事故に思うこと

2012-11-27 12:02:00 | 社会・政治・一般

登山の一種だったのか

なにがって、シナの万里の長城での遭難事故のことである。観光スポットとして世界的に有名な万里の長城だが、よくよく考えれば山の稜線上に築かれた山城であり、山特有の気象に襲われるのも当然なのだろう。

日本人旅行客が登山中に遭遇した急速な天候悪化により、3人が凍死に至り、一人が怪我を負って帰国したようだ。一応、ガイドはついていたようだが、救助を呼ぶのが精一杯だったらしい。

どのような企画であったのか詳細は知らないが、問題はこの旅行企画をしたのが、数年前に北海道トムラウシ山での遭難事故を招いた会社であったことだ。

私は事故の詳細を知らないし、その企画自体も知らない。だから安易な批判はしたくない。しかし、前から思っていたのだが旅行と登山は混同しないほうが良いのではないだろうか。

概念的には登山も旅行の範囲内だとは思う。しかし、危険度が違い過ぎる。山に登るということは、人間が暮らす社会から離れて、野生の世界に踏み入ることを意味する。人々が暮らす日常的な世界の移動に過ぎない旅行とは、根本的に異なるものだと思うからだ。

山で人が生きていく為には、人自らが生きるための努力をしなければいけない。人々が暮らす街とは異なり、山では人が生きる為に必要不可欠な水、食料、住まいなどを自分で確保しなければならないからだ。

山では人が、ただ単に生きていくだけでも難しい。だからこそ、古来より人々は安易に山に入ったりはしなかった。山で獲物を狩る猟師などの限られたエキスパートだけが、自ら山に入っていった。

人々は知っていた。山は人の住むべき世界でないことを。5千年を超す人類の営みのなかで、山で暮らすことを選択した人々は極めて稀であった。迫害から逃れるため、あるいは宗教的生き方のため、農業が出来ず動植物の採取で生きるしかない環境である為とか、特定の理由がない限り、人々は平地で暮らすことを選んだ。

ところが近代に入り、主にイギリスやドイツなどで登山をスポーツ的概念で捉える人々が現れた。未知なる世界への探求は、近代ヨーロッパに吹き荒れた流行のようなもので、住み慣れた故国を離れて遠くアフリカ、アジア、南米などに挑み、そこを制覇することに熱中した。

これは政治的には帝国主義であり、経済的には植民地敷設であり、精神的には未知なる世界の征服であった。侵略的行動であると同時に、冒険的精神の発露でもあった。この延長線上に登山という新しいスポーツが産まれた。

19世紀から20世紀にかけて、世界の主な山の頂は人間により踏破された。やがて、登山道が整備され、山小屋が作られて、一般庶民でも山の世界に踏み入ることが可能になった。これは確かに旅行ブームの延長線上にあった。

未知なる世界をわが目で見たい。

この素朴にして熱烈な要求が、世界をまたにかけた旅行や登山を生み出した。そして21世紀初頭の日本では、中高年を中心に登山ブームとなっている。しかも、時間のかかる技術習得を省き、人間関係のしがらみが強く残る山岳クラブではなく、旅行会社の企画したツアーに参加する形で山に登る。

その旅行会社も、十分な下見もせず、事故を想定した事前対策も不十分なままツアーを募集する。おまけに同行するガイドも、通常のツアーガイドの延長に過ぎない。本格的な山岳ガイドとは異なる、ただのツアーガイドに安全な山岳ガイドが務まる訳がない。

単なる観光地旅行ならいざ知らず、登山ともなれば相応の下準備と、安全確保のためのガイドが必要なのは当然のことだと思う。だが、この観光会社は、その準備を怠った。

おそらくこの観光会社にとって、客を引き寄せる企画を優先させて、企画の安全性に対する配慮を軽視したのだろう。そう非難されても、致し方ないと思う。

単なる観光旅行のツアーガイドと、安全な登山のための山岳ガイドは別物だ。ガイドのせいばかりではない。生き残った方と、凍死遭難者を分けたのは、おそらく防寒具だったと思う。山で生き延びる装備を持ったものと、そうでないものとの差でもある。

やはり、観光旅行と山岳ツアーは分けたほうが良いと思うな。

コメント (6)
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