未だに理解しがたい。
なにがって応援団である。私は登山という特殊な分野ではあるが、高校大学と7年余り運動部で過ごしてきた。しかし、当時から同じ運動部系の部活とは認めがたかったのが、いわゆる応援団という奴であった。
いや、認めがたいというより嫌悪感の方が強かった。なんで、そんなにエバっていやがるのか?
同じ学校の仲間たちが試合をするのを組織だって応援するのは分かる。でも、その応援するほうが高飛車にふんぞり返る姿が嫌いだった。私は登山が他者と争う競技ではないため、応援団から応援された覚えはないが、それでもそこはかとなく疑問に思っていた。
あんなむさ苦しい奴らに応援されて、競技者は力が出るのか?
こればっかりは分からない。サッカーなどを見ていると、サメ[ターと称される応援者の声援が、選手に力を与えているのは確かなようだ。だから一概に否定はしない。でも黒い詰襟の学ラン来た男たちの怒鳴り声で応援されても、選手って嬉しいのか?私には理解できん。
実は私が反感を抱くもう一つの理由がある。私が高校卒業までを過ごした三軒茶屋という街には、大学が3校あった。あの時代は学生運動が盛んであり、三茶界隈の安いアパートには、学生運動家が数多く住んでいた。
私は小学生の頃から、キリスト教の団体を通じて、彼ら学生運動家との付き合いがあったので、心情的には彼ら寄りの立場であった。だからこそ、大学応援団の奴らが嫌いであった。
60年安保での左派学生運動の盛り上りは、自民党政治家には大いに脅威であった。それゆえ彼らは右翼の大物フィクサーであった児玉を通じてヤクザを集めて、左派運動家に対する威嚇をするようになった。
もっともヤクザの本音は関西の山口組への対抗手段としてであったが、左派運動家潰しにも活用されていたことは周知の事実であった。ただ、如何にヤクザと云えども大学内の学生運動家には手を出しずらかった。そこで活用されたのが、大学内の応援団であったようだ。
当時、大学の応援団といえば大学当局側の用心棒あるいは飼い犬呼ばわりされる嫌われ者であった。私がよく世話になった大学生のお兄さんたちは、応援団の連中を蛇蝎のように嫌っていた。無理もないと思う。
あの頃、三茶の裏通りの安酒場に行けば学生同士の喧嘩が絶えなかった。左派学生の理論闘争といえば聞こえは良いが、実際は酔っ払いのふざけ合いのようなチャチな喧嘩であった。しかし、そこに応援団の連中が絡むと途端に壮絶な苛めとなる。
どうゆうわけか、あの頃の応援団には暴力的な雰囲気が漂う若者が多く、喧嘩馴れした輩が多かった。後に知ったのだが、柔道や剣道など武道系クラブとの掛け持ち団員や、応援もあったようだ。
云っちゃなんだが、学生運動家なんて知識過剰で運動不足のガリ勉が多かった。いくらヘルメットを被り、ゲバ棒を持って構えていようが、喧嘩馴れした応援団の荒くれ者には勝てなかった。
私の目には喧嘩というよりもイジメに近かった。ただ、大怪我をする者がいなかったのは、応援団の連中が喧嘩慣れ、場馴れしていたからだと思う。後年、学生運動家たちの間で起こった内ゲバのほうが、陰惨というか苛烈であったのは彼らが喧嘩慣れしていないが故に、手加減が下手くそだったのではないかと思っている。
路上で顔面血まみれ、涙と鼻水まみれの知人の学生運動家を見つけると、私は律儀に教会のシスターたちを呼びに行って連れてきたものだ。彼女らに介抱される学生運動家たちを見るたび、こんなに弱いものイジメをしなくてもいいのになと、幼いながらも憤慨していた。
そのせいで、大学に入っても応援団に対しては、どうも好意的には思えず、距離をとっていた。実際のところ、私の母校はお坊ちゃんお嬢ちゃんの通う上品な大学であったので、応援団も暴力的でなく、むしろ古風でさえあった。率直にって大学内では浮いていたように思う。
そんな時代に一世を風靡したのが表題の漫画であった。南河内大学という架空の大学の応援団を舞台に繰り広げられる団長・青田赤道のハチャメチャな活躍に腹を抱えて笑ったもんだ。
「ちょんわ、ちょんわ」と奇声を発しながら下級生をシゴキ、「くうぇ、くうぇっ」と叫びながら女の子の尻を追いかけ、あげくにヤクザやチンピラ相手に喧嘩を繰り広げる青田赤道の奇想天外なキャラは、応援団嫌いの私でも笑わざるを得ない。
笑いながらも、こんな応援団ありえねぇ~と思いつつ、これに近いのならあるかもしれないと想像してしまったのは、やはり十代前半の頃に見かけた応援団たちの記憶があったからでした。